なんとなく上映を知ったので『白夜』(ロベール・ブレッソン、1971)を観てきた。この監督の作品を見るのは多分初めてなのだが、クライマックスの映像にはなんとなく記憶がある気もする。そのイメージが本作によるものか、類作のそれだったかはわからないが、つまり想像されたままの終わり方であり、繰り返すが、既視感も否めないのである。また、原作にあたるドストエフスキーの同名作品は、おそらく読んだことがない、と思う。うーん、読んだことないよなぁ、多分。

して、小説の原題こそ《Белые ночи》ということで正しく日本語では「白夜」だが、 映画のタイトルは 《Quatre nuits d’un reveur》となっており、これは「夢想家の4つの夜」というような意味になる。フランス語は読めんが、前半部分はなるほど、4つの夜だ。ということで、映画のタイトルをそのまま読むと、オチもさらに想像しやすいのであった。悲しい。

原作のニュアンスはわからんと前提しつつ、ざっくりと全体像を捉えると、ピュア(湾曲表現)な若手芸術家(ジャック)、束縛の厳しい家庭で育ったアンポンタン娘(マルト)の不幸な邂逅である。あぁー、バカらしい。

こういう結末を迎える作品、あんまり劇場でみないんだけど、およそこのタイプの作品を悲劇と捉えるなら、ロマンスに纏わるその他のジャンル群(ラブコメとか)ってこういう作品へのカウンターパートなんだろうかなと思った。ロマンス作品の系統的比較なんかあるのかしらね。

70年代はパリの町並みは十分に都会的である。本作全体において言えるが、特にジャックが屋外でひとりで行動するシーンにおいては走る車の音がないほうが珍しい。作者らがどう意識したかは知らぬが、私にはジャックと社会との隔たりを際立たせていたように感じられた。孤独というか、あるべき場所に収まっていないような。

一方で、マルトが中心になるシーン、つまりはロマンス的なシーンにおいては足音が重視される。こう捉えると、なるほど社会の中の1人を見るときと、1対1の関係におけるシーンでシンプルかつ効率的に描き分けられている。あんまり単純化してもつまらないけど。

この辺に踏み込むと、ジャックが主人公であるというよりは、彼(のような存在)を戯画化しながらマルトの生のキラキラみたいなもの(それを美しいとは感じづらいが)を描いたのが本作なのかな? となる。

つまるところ、マルトとその想い人とのやりとりがキモになる。それらも、あんまりキレイじゃないないけど、半ばくらいはキレイに感じられるように描かれているので(それが本作の魅力なのだろうが)、まー、バカらしい。

もう少し言うと、マルトが橋に登ったとき携えられていた本が何なのかは判然としないが、想い人とマルトとの関連で描写されている本と言えば1冊だけであり、字幕による情報しか私は知らないが、それはそれでセンシティブな内容なのであった。

あるいは想い人が勧めた映画というのも酷いもんで、当時にしたってあんなチープな銃撃戦は映像作品としてはチープなだけだったと思うが、それだけにメッセージ性は強い(ということになるのではないか)。マルトの母、蚊帳の外で可哀想だ。

マルトが自分の魅力を己で認識しようとするシーンなどは、それはまぁ瑞々しさもあって、「うわー、おフランス映画やな」って感じだったけど、それはそれとして引力の強さは否めないのであった。

ジャックについて語ることもないというか、深入りすると此方が傷つきそうなのでやりたくないが、芸術家の友人との絡みはおもしろい。あそこは監督の色気というか、自我がちょっと覗いているのかなとも受け取れるが、穿てば、ジャックこそがあの青写真の染みそのものと言えそう。

ジャックは現代(当時)における芸術の先端そのものだったんや! レコーダーも筆も捨てて、野に出よう!

本作の時代のパリに、ヒッピーみたいな音楽家たちがたくさんいたのかは知らないが、川辺で勝手に集まっているやつらは “This girl is strange” ? みたいな英語歌詞の歌を歌ってたね。一方で、セーヌ川?をゆく観光船の歌なんかはフランス語っぽかった(わからん)けど。この辺もおそらく、きれいに計算されてるのよな。

Comments are closed.

Close Search Window