《マトリックス リザレクションズ/The Matrix Resurrections》を観た。雑な鑑賞者なので、過去のどの作品における結末も、その意味も曖昧なままで臨んだが「これはシリーズ最高傑作じゃないか?」となった。 もちろん、第 1 作目ありきという点はある。
空を飛べるはず
2 作目の「リローデッド」にて、仮想現実におけるネオの超常性の極みとして彼は、空を飛んだ。1人の視聴者としてそのスゴさを理解できたとは思っていないが、これがどれだけスゴいかは、他の登場人物たちには不可能な行為であることから示される。あるいは銃弾を受けとめたり、ハンドパワーでオブジェクトを撥ね退けるのもネオ特有の能力だ。
さて、空を飛ぶヒーローといえば古今東西の事実として、孫悟空(『西遊記』)かピーターパンか、スーパーマンでもいいが、とにかく普通の人間じゃない存在の筆頭だ。マトリックスは第 1 作でもありえない跳躍力や身体能力は見せつけてくるが、この時点では空は飛べない。
で、今作でも空を飛ぶことが如何にもキーポイントになっている。ときどき現実感を失うアンダーソンは、なんか空を飛べる気がしてしまう瞬間がある。言うまでもなくて、過去作の変奏であって、アンダーソンは深層では現実を自覚している。
年を取った 2 人 あるいは
それぞれの発表の当時 3 部作をザックリと眺めていたときは、トリニティーの重要性にそこまで注目できていなかった。
ところで、セカイ系のような文脈で括りたくはないが、思い合う 2 人の関係がもたらすエネルギーは桁が知れない。今作は、ネオとトリニティーの過去におけるすれ違い、というか不幸な生き別れに対し、あらためて明確な答えが提出される。これこそがリザレクションなワケだ。
2 人は仮想現実でも現実世界(こっちはどうなんだろう)でも年を経ている。なんなら同僚もいれば家族もいる。若いままの彼らではない。とはいえ、ここは案外に重要なことと思うが、今作では、年を重ねてこそいるが、老いを理由にした要素を持ち出すことは最小限で、それもほとんどネガティブなことはない。
しかしなんだね、気がついてみれば、本作あるいはシリーズを通してのネオは周囲に振り回されるのが半分、自分の決意が半分、なんかどうにかなっちゃったぜが半分という雰囲気だなとあらためて感じる。
そこに今回はトリニティーの存在意義があらためて問い直されているワケで、ネオはいったい何だったんだとすらなり得る。こういう配役で浮きすぎず、かといって存在意義を失わないのがキアヌ・リーヴスたる俳優の凄さだろうか。
繰り返すようになるが、トリニティーがなにより重要である一方、ネオも重要なのは言うまでもない。エンドロールの最後にあるように、そして監督インタビューなどでも語られたように、監督は両親への愛と感謝を前提に今作を残したことを考えると、自ずと答えは出るだろう。
スミスの台詞のニュアンスよ
最終決戦というかクライマックスの段において、スミスは「君になることは誰にでもできるが、僕は誰にでもなれる」という旨の発言をした。
ここから、スミス支配下におかれた市民たちによる狂乱の舞台が繰り広げられる。あきらかに《ワールド・ウォーZ》(2013)や《新感染 ファイナル・エクスプレス》(2016)のシーンをそのまま反映させたような、ゾンビ映画様のシチュエーションが繰り広げられ、笑ってしまう。
ところが、スミスの発言のキモは、その後半にあったのではなくて前半にあった。わかりやすいといえばそれまでだが、最終的にこのセリフの意味が、こういうことになるとは、という感心があった。ありがとう、いいスミスです。
こまごまとしたこと
以下のことは何となく気になったのでメモとして残しておく。
日本をどうしたいんだよ
作中で「ここは日本だ」というようなシーンがある。新幹線のなかで東海道だろうか富士山を背に東京方面に向かっているようなビジュアルだったか。紛い物の桜の美しさが鼻につく。
乗客は子供たちやらサラリーマンやらいたが、一様にマスクを装着している。今作がどの期間に撮影されたかしらぬが、まぁみんなルールに従ってマスクしているわけだ。
で、上述したクライマックスのスミスの人間ハック技はここで実はすでにお披露目されており、スミスの手下となってしまった醜悪で無垢な日本人たちがネオの一行に襲い掛かる。新幹線のなかでのことだ-やっぱり「新感染」じゃんとなる。
このシーンに日本を選んだことにどういう意図があったかは想像するしかないのだろうが、いかにも皮肉に映ることは確かだろう。再度目覚めようというネオに降りかかる最後の障害であった。ちょっと心に刺さるものがあったよね。
再現の舞台空間の古めかしさよ
日本人たちから逃れて辿り着いたのは、ネオの記憶を呼び覚まし、ふたたび現実へ彼を呼び戻すためのステージだった。このステージ、大きなスクリーンに過去作の映像をそのまま映し出して、ネオの動揺を誘うという仕掛けだが、安っぽいと言えば安っぽい。
作品のメタさと舞台のベタさの相乗効果がなんともいえないシチュエーションを生み出しており、ぶっちゃけ萎えてしまったひともいるのではないかとすら思う。なにかしらの作品のオマージュでもある気もするが、ハッキリとはわからない。
でもこのシーン、なんだかんだで好きなんだよね。
で、だいたい言いたいことは終わりだが、ひとつだけ不満というか、トレーラーで使われていた音楽について、たしかに作中でも同じシーンでそのままに使われていた。印象に残るものだったが、そこ 1 箇所で利用されるだけだったのが少し寂しい。
最後に、過去最高作じゃないかと感じた理由づけを簡単にしておくと「蛇足とは言いがたい内容になっていた」という点に尽きる。何も新しいとは感じないが、観るに値しないみたいなことはまったく思わないし、奇妙な味わいが確かにあった。
参考
以下の上の記事を読んで劇場で観たいとなった。作品について詳しく、社会批評寄りの内容で、特にジェンダー方面の視点を取り扱っている。作品周辺の事情については下の記事がより具体的であった。あんまりこういう視点に寄りたくもないが、世の中がこの作品をどう評価して、どう利用しようとしているかはキモではある。
あらためて個人的な感触だけ付言すると、ごくパーソナルな視点としては、女性というイデアにまつわる根源的な視点を求めるんじゃないかなという気はする。上述したが、そこには監督の本作へのモチベーションが何に根ざしているか、というのが基本になるのではないか。
Last modified: 2022-01-25