4 月初頭、機会があったので『伝説巨人イデオン』の「接触編」および「発動編」を観た。もともと伝説的な作品だと承知していたが、鑑賞する機会と熱意に恵まれず、今日まで未鑑賞のままだった。
「発動編」入りのハイライト直前までは TV シリーズのまとめ版ということで、体験としては可能であれば TV シリーズを見て、それから「発動編」を堪能するといいとのことだが、今回は劇場版 2 作品を通しで見るに留めた。
もちろん、端折られた部分について未鑑賞となるのは心残りがあるが、総監督の富野由悠季の作品はある程度は知っているので、おこがましいけれども、そこそこの補完はできたつもりだ。なお、現時点では Amazon Prime でレンタルされているようなので、気が向いたら楽しめる。
まぁ、なので、これから書く感想はあくまで劇場版の範疇になる。
敵が味方になる展開が熱いじゃない
前置きを無視して、劇場版ではほとんど活躍できなかったギジェの話をする-やっぱり省略されたストーリーが熱いじゃない。本作、すべての事件の原因はカララにあるみたいな言われ方をしているようだが-もちろん否定はできない、初見の感想としては先見隊長ギジェ以下の統率の無さが悲惨極まるなと。つまり、ギジェの第一印象は最悪であった。
その後、バック・フランの軍に戻ったギジェは月面に滞在中のソロシップへの攻撃部隊に加わり、混乱のさなかで地球人のシェリルを救いつつ、ソロシップに乗り込む。TV シリーズではソロシップクルーとの葛藤やシェリルとの情愛などが丹念に描かれるのだろうけど、ここは「発動編」ではダイジェストで済まされた。
さらにその後、植物が鬱蒼と繁る惑星に追い込まれた戦闘で、ギジェはイデオンパイロットとしてで偉大な貢献をして息絶える、みたいなことと思うが、いやぁー、彼の活躍をちゃんと観たかったですね。やっぱり TV シリーズを見るしかないか。このときのイデオンのぶっ壊れ性能がまたユニークなんだわ。
一瞬の風のように去っていったヒロインがいた
前置きを無視して、劇場版ではほぼハイライトでしか登場しなかったキッチン話をする。ソロシップは補給を兼ねて地球系の植民星に降り立ち、そこの住民に助力を求めるものの、彼らからはにべもなく断られる。なんならバック・フランの追跡と攻撃によってこの植民星もヤベェ、そこからは破滅へ一直線、ということだと思う。バック・フランは好戦的が過ぎる。
この植民星でコスモと懇意になったのがキッチ・キッチンで、お互いにそこそこ惹かれ合う感じになっていくようだが、上述の通りに、ドバァーンッ!! うわぁーん! となって、コスモがブチ切れる!! キッチンの最期は TV シリーズよりもハイライトによる描写のほうが過酷になっているようだ。世知辛い。
コスモはロマンス要素ないよなぁ、などと「接触編」を見ながら思っていたし、キッチンの人物像もまた絶妙で散っていくには如何にも惜しい人物なので何とも衝撃的なのである。
と、こんな感じで主にギジェとキッチンにまつわる顛末が「発動編」冒頭のハイライトが流れる。なんのこっちゃかはほとんど分からないままだが、怒り猛るイデオンおよびコスモの姿に思わず感動せざるを得ない。
イデオンパイロットたちのさまざま
劇場版で省略された結果か判断しづらいが、3 機あるイデオンマシンのパイロットの「パイロットとしての立場や苦悩」のような視点はあまりなかったと感じる。Aメカのコスモとデク、Cメカのカーシャ以外は乗組員の交代も多いようで、先の例だとギジェが挙げられるが、Bメカのパイロットはなにかと不憫だ。
ついては、イデオンとおよびイデのエネルギーは自己防衛本能の強いより若い命、なんなら幼児や胎児レベルに反応するという点がこの機体、さらには作品全体の根本的な思想ともなるのだが、Bメカのパイロットは、悉くこの思想から相対的には 1 番遠い立場にあった。そういう意味付けもあるのだろうか。
逆に、若いからこそか、デクはクライマックス付近ではイデオンのレーダーなどの機能をそこそこ十分に使いこなしたようで、パイロットとしての成長はもちろんだが、適性の強さ、新しい時代へのエネルギーを感じさせる。
最期まで居たベスにせよ、途中で散っていったギジェにせよ、あるいはその他の Bメカのパイロットにせよ、 30 代目前くらいの年齢と思われ、充分若いようだが、そんな彼らにしてもイデオンとしては古い世代として扱うようなのがツラい。
この観点でバック・フラン側を見ると、主な登場人物でもっとも若いのがカララで、他の登場人物は彼女よりも年上だろう。そりゃリーダーが爺たちの集団に未来なんて切り開けるわけがない、となるのであった。
この旧世代を中心にしか回ることのない敵役の人間関係の描写は、オーソドックスなようでいて、なかなか珍しいというか、実はあんまりない徹底のしかたなのではと少し思う。実際に調べるとどうだろうか。
コスモとカーシャがみせた未来像は
なんだかんだでラストシーンがよい。実写で波打つ海を映したシーンが長尺で続くのも好きだよ。
メシアに導かれる人類たちは、それはそれでいい。スターチャイルドだか上位存在だかになるんだろう。インターネットに転がっている情報を読む限りでは、ラストシーンに登場するキャラクターたちはかろうじて現世での記憶を残しているだけで、存在が昇華されていく過程で人格や記憶をすっかりアレしていくらしい。違和感はない。
逆に、視聴者に彼らの意思や考えが分かるのもここまでなので、ここで何を感じたかで彼らとの接点は切れる。ラストシーンの最後に起こることはごくシンプルで、逃走と闘争に疲れたコスモが眠ったまま起きず、佇むカーシャにキッチンが合流し、2 人で彼で起こす。
キッチンが先に行っちゃったので、最後はカーシャと手を取り合って行くってだけなんだけど、なんなのさこれ。やっぱり TV シリーズをみないとアカンと思うのだが、カーシャという人間が本作で果たしてきた役割の大きさというのが実感させられる。
別にそれは、コスモが表で活躍して、カーシャが陰で支えるみたいな旧態依然というかベタな関係を想起させるものではなくて、もっとなんかすごくいい関係だったり、あるいはチカラの象徴のような気がする。
Last modified: 2021-06-01