『Before Sunrise 恋人までの距離』を観た。ワイは映画業界のことはまったく知らないけれど、監督のリチャード・リンクレイターはいわゆるインデペンデント系の出身らしい。ハリウッドとかの巨大資本とは別流っちゅうことなんかな。本作は出世作ということもできそうだけれど、どうなんだろう。キャリア 4 作目の作品のようだが。

さて、監督のことは『6才のボクが、大人になるまで。』で知ったけれど、実はこれもまだ見ていなくて、なぜか『リチャード・リンクレイター 職業:映画監督』は劇場でみたんだよね、なんとなく見にいったのであったが、概ね謎である。まぁ、そういうことで初鑑賞ということだ、なんと。

本作を見てて、自分のなかで連想された近頃の作品といえば『コンパートメントNo.6』か、『おとなの恋は、まわり道』などだろうか。こういう会話劇主体の恋愛模様を描く作品はどういう系譜なのか、それこそ『ローマの休日』が源流的なのかしらんけど、どうなんでしょうね。

で、会話、脚本が上手いというか、その人物像を其れらしく成立させるテクニックがスゴイ。それに尽きる。彼らの年齢設定までは洞察できなかったが、まぁいいとこ二十代中盤でしょう。でまぁ、冒頭で彼らの読んでいた本に示唆されるのだろうけれど、セリーヌのほうが学があるわけだ。クライマックス近くでジェシーも零していたが、そういう関係である。

これはあくまで私の視点だけど、やっぱり余裕があるのはセリーヌの側で、それは色々な面からもいえるのだろうが、面白いなと思ったのは、ウィーンの町が彼女にとってはそこまで距離のあるものではないという点かな。ブダペストには祖母が居て、なんならウィーンにも来たことがある。

一方のジェシーと言えば、飛行機で大西洋を渡った先だ。ドイツ語はできないし、フランス語は挨拶程度、まっさらの異国の地だよ。言うて、ではあるがね。そういうバランスが内在しているのが既に巧いな、と思うわけさ。

ジェシーの語る曾祖母のエピソードが非常に大きなフックになっているのは誰でもわかるが、なんだっけな、私は遊園地を散策中の会話で、ここで生きてくるんだなと思ったのさ、カフェでの会話ではなくて。

つまり、家族観とか死生観が交じわる瞬間にあたるが、これは決定的にマッチングしない可能性を孕んでるタイミングでもあるわけじゃないですか。ハラハラドキドキはしないし、いまらさ共感性羞恥ってものでもないが、見てみてツラいものはある。本作はそうはならんけど。

実はジェシーは失恋したばかりという設定も、他愛のないことのようではあるが、別れ間際に佇む2人の位置関係によって、彼の失恋旅行は完全に終わったことが示唆されていたのはよかった。アレがまだ失意あるいは癒しの旅であるだけだったら、あの姿勢と構図にはならないよね。遠くの空を眺める彼の横顔がよかった。

ハープシーコードとは

上述のシーンに劣らず、明け方の半地下の窓を覗くとバッハを演奏するを眺めるの図もよかった。夢から覚めかけの2人なのだけど、まだ余韻がある。それを音楽が手助けしている。

クレジットと Spotify に登録されているサウンドトラックから《Sonata BMW 1027 – à due Viola da Gamba è Continuo – Andante》であることはわかったが、劇中でこれを「ハープシーコード」と言っていたのが気になったのさ、「チェンバロ」ではねぇのけと。

すると、以下の記事の通りなのだが、「イギリスでは「ハープシコード」イタリアでは「チェンバロ」」「フランスでは「クラブサン」、ドイツでは「クラヴィーア」と呼ばれていて」「同じ楽器と思っていい」そうだ。

はぁ、知らなかったな。すると、これは狙い通りかわからないが、フランス人である彼女が「ハープシーコードよ」と言ったのは、英語でそう呼ぶことを知っていたからなのか、それとも今日日フランス人でもそう呼んでも不思議はないのか、などなど、想像も膨らむものである。

なんだこの終わりは。

この映画、続編が2つあって、それぞれ同じ配役でそれぞれの未来を、それこそジェシーが言ったように10年後の2人の関係が描かれるようだが、それはそれとして、私のような日本人には微笑ましい恋愛劇にみえるけど、アメリカやあるいは欧州の若者に同じように映るのかねぇとは思った。1995年とはそれだけ古い時代のこととなってしまったってワケ。

ウィーンの町も、治安がいいんだか悪いんだかわからないのが面白いが(あくまでフィクションです!)、アレもやはり最早いまとなっては昔の風景だろうし、そう思うと謎の感慨深さがある。

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