2022年の末に《楢山節考》(1983)を観たのであった。

今村昌平の作品の初鑑賞と、さきほど亡くなったあき竹城がこの作品から芸能界をステップアップしたということで興味を大きくなったのが切欠だ。

というか、《戦場のメリークリスマス》を観たときに、実は本作こそがカンヌで受賞したというエピソードを目にしていたが、そのときはまだ気にしていなかった。今になると、ざっくり言って、本作のほうが日本の映画らしさはあるので、そのへんが買われたんだろうな。

いわゆる姥捨て山にまつわる話だということは理解していたつもりだったが、別に爺も捨てるのに、なんで姥捨て山なのかなとも思うが、おそらくは古くから特に生き残りやすいのは圧倒的に女性なんだろうなと、どうでもいい想像を巡らす。

姥捨てというか、人口調整というか、口減らしというか、間引きというか、直近だと『まほり』なんかも同じような題材ではあった。ちゃんとした資料が残っていることがほとんどないらしい、という点も似ている。

そういえば、2022年の《PLAN75》という映画が似たような題材だということで、その主演は倍賞千恵子だが、今作にはその姉の倍賞美津子が出演しているのだよな。

ついでにメモしておくと、なんか成田祐輔という経済学者が「高齢者の自決」を促すような発言をしたとかで怒られていた。しかし、まぁよくわからんな。

ここはどこの山奥じゃ

作品は、辺鄙な田舎の山奥の農村での習わしを扱っており、それなりに重たい。それでも暗くなりきらないバランスは、主人公の弟(彼らは彼らで悲惨なわけだが)の能天気さやエネルギー、あるいは主人公の息子の能天気さがある程度まで勝っているからだろう。

よく調べていないが、時代背景としては江戸の終わりから明治初期を扱っているハズという情報は見た。なるほどと思うが、どうなんだろう。撮影自体は長野の廃村を使ったらしい。部分部分は「妙に立派な家屋(設備)じゃね?」というようなオブジェクトが目に入ったので、なるほど。

印象的なのは、冬は冬眠中の蛇がネズミの餌になっているが、平時はもちろん蛇のほうが強く、時とともに立場が逆転する図が示されていたことで、蝉やらなにやら人間やら、春から夏にかけては勢力が盛んになり、生を謳歌する。動物や虫の描写は、ムルナウの《吸血鬼ノスフェラトゥ》なんかを連想しますな。最近だと《NOPE》でもあったけど。

地元の神様の祭壇みたいなのはあるが、仏教的な様子も無くて、これも面白いが、そもそも楢山信仰みたいなのがあるらしいという設定なので、本当に山奥の田舎って感じなんだろうな、とか。

主人公の弟、また村の各家系の次男坊らは基本的には家を継げず、子を成せず、独立ということも無さそうな状況らしく、彼ら自身は労働力ではあるけれど、ごくつぶしな面もあるという事実も重たい。

現在ではあまり意識されることはない気はするが、田舎の次男坊というのはそれだけ立場が弱いということは、少し前までは当たり前のことであったと思う。

というか、あれだ、タイムリーなネタとしては英王室のハリー王子なんていうのは、正しく歴史的な次男としての立場の究極系なんだろうな。話が逸れるようだけれど。

好きなシーンとか

やはりどうしても母を背にして楢山さまの奥深くまで入っていく箇所が強い。

握り飯のやりとりは渋く好くて、息子は母に最後の食事をまっとうしてほしいし、母は自分の最後に作った食事を息子に食べてほしいと願うでしょう。そりゃあさぁ。

わらべ歌の通りに雪が降ったという描写も、それを喜んで母に伝えに行くという息子の素朴さがよい。てか、メッチャ往復が長くなったろ。足もケガしてるのに大変だ。

解釈が分かれるのかな? という箇所、もっとも面白いなと思うのは、途中で母が姿を消すシーンであった。

あれは幻影だったのか、幻覚だったのか、息子が休憩中に母もちょっと用を足していたとかなのか、不思議である。なんならあそこで完結かとすら思った。これ、原作に同じ展開はあるのかね? つまるところ、息子の戸惑いを強調する役目のシーンなんだろうけれど、よく表現した。

最初に「口減らし」と書いたが、死にゆく老人、親ら親族らのその姿を間近で世話したり、観察したりという実務的な手間、あるいは感傷的な状況を避けるという目的もあるのかなとは思った。足を引っ張る爺も描かれてはいたが。

生命は尊いに違いないが、その終わり様というのは尊いのだろうか。尊くあれとするのが人間だろうか。

Comments are closed.

Close Search Window