極限状態で隣人を愛せるか|《戦火のかなた/Paisà》

《戦火のかなた/Paisà》英題は “Paisan” を観た。ロベルト・ロッセリーニ監督の 1946 年の作品で、前年の《無防備都市》に続く戦争三部作の二作品目となる。120 分の上映時間は 6 つの小話に 20 分ほどずつ区切られており、それぞれが独立している。

小話は、連合軍の US 小隊がシシリアの海辺の村に上陸する話から始まり、舞台は徐々に半島を北へ移していく。これはドイツ軍の撤退方向と一致すると思われるが、どうなんだろうね。

というわけで、スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 9 作品目です。

ep.1 シシリア

シシリアに到着した US の部隊が当地の女性を案内人にして古い砦へ向かう。女性と見張りを残して探索隊が出る。束の間の交流が非常に微笑ましいが、ちょっとした気の緩みから見張りはドイツ兵の凶弾に倒れる。

戻った部隊は女性を疑うが、女性は倒れた見張りの銃を手にして、ドイツ兵に反撃を試みていたのであった。最後は両軍とも砦を去るようだが、その結末は暗い。

暗闇でのシーンが多いのでフィルムの状態も相まってか、見張りと女性の交流シーンなどは特に鮮明でなく、結末もどう解釈していいのかわかりづらい。いずれにせよ、戦場で垣間見えた日常が一瞬で塵となり、それに巻き込まれた人間のあっけない運命が心に残る。

ep.2 ナポリ

孤児たちが酔っぱらった黒人兵を囲んで身包みを剥ごうとしている。その少年達の 1 人と黒人兵のやり取りはしばらく続く。2 人の追いかけっこは、さまざまなカットが入り乱れて続くが、よく撮られている。

少年にアメリカの都会の物語を聞かせるシーンは本編のダイジェストだろう。2 人とも、とても楽しそうだ。前編の見張りは自宅に帰りたいと繰り返していたが、本編の黒人兵は家はボロボロだから別に帰りたくないらしい。さまざまだ。

後日、素面の黒人兵と少年は再会するが、兵士は途中まで少年と気づかない。ある理由があって、彼らは少年の住処に向かう。戦火に破壊された少年ら現地民の状況をあらためて目のあたりにした黒人兵は黙ってそのまま去る。

最後のシーンが好きだ。手塚治虫が使いそうなカットである。

ep.3 ローマ

ローマが解放され、街へ入ってくる連合軍の部隊をローマ市民が大盛り上がりで歓迎する。入り乱れたカットで演出される、その盛り上がりの躍動感がすごい。

一転して半年後、解放当時の盛り上がりは何処へと兵士もホステス達も嘆くキャバレーのような店内に、治安部隊のガサ入れがある。娼婦のひとりが逃げ去る。

娼婦は逃げる途上で酔った兵士を掴まえる。実はこの 2 人は既知の間柄であったが、お互いは気づいていない-という点では前編と似たことが起こる。女は途中で彼に気がつき、なんとか別日に再開しようと試みるが、それは失敗に終わる。

これがよく分からない。男は女に気がついていたのかそうでないのか、明らかではない。私は初見では気がついたうえでそれを無視したのかと思ったが、そうとも言い切れないようだ。誰が悪いわけでもない、戦争が悪い。誰が悪い。

ep.4 フィレンツェ

アクション作品として楽しんだ。ドイツ軍から解放されたエリアから、まだ銃撃戦が続いているエリアへ赴く男女がいる。それぞれに事情は異なる。市民のゲリラ兵とドイツ軍がドンパチやっているなかをソロリソロリと移動していく。

区画から区画へ、閉ざされたエリアへ逃げ込んだり、屋根伝いに走り回ったりと
移動していく 2 人を横から眺めるようなカメラワークがおもしろい。完全に遮断された箇所を横断するために、閉鎖された美術館を利用する方法も面白い。この美術館も実物らしいし、この方法自体も現実にあったのだろう。

身内の安全を求めて戦闘区域の中心部へと進んでいった 2 人の残した結果は、これはこれで残酷極まりない。

ep.5 トスカーナ

市民からも篤い信仰を集めているらしいカトリック修道院がある。そこそこ階級の高そうな US の兵士 3 名が寝所を求めて来訪した。修道院側もこれを受け入れた。食料の交換などが描かれて微笑ましい。

暗雲が立ち込めるのは 3 名のうち 2 名がプロテスタント、ユダヤ教徒であることが判明してからだ。かなり教義に厳密であるらしいこの修道院の僧侶たちは、異教徒をもてなしたことに恐慌状態に陥る。

傍からみたら笑っちゃうかもしれないけれど、当人たちにとっては重大事だ。結局、修道僧らはある方法をとって、彼らを受け入れることとしたが、それに対して自身もカトリック神父である兵士が礼を述べる。

神に赦しを求める修道僧を、リーダー格の僧侶が宥めるシーンがなんともよく出来ている。前のエピソードでもそうだが、ロッセリーニ監督も階段を使ったシーンの使い方が巧みに思えるがどうだろう。

ep.6 ポー川

ポー川のデルタ地帯といっていいらしいが、イタリア北部を流れるポー側の東側の河口付近、ヴェネチアのほぼ南に位置する。葦が茂る河口付近で市民のゲリラ部隊と応援の US 兵達がドイツ軍に囲まれつつも何とか生き延びようとしている。

が、絶体絶命らしい。

エリア内にある小さな村もやられてしまった。本作でもっとも残酷なシーンも割とあっさりと流されてくる。無常だ。

まともな戦闘シーンが登場する。ほとんど絶望的な対決は、絶望に終わって、その後の結末も絶望でしかない。あまりにもあっさりとしている。淡々と処理しなければやっていけないのは戦場の常なのだろう。最後にポー川の水面が静かに映されて “FINE” となるが、 やはり、あまりにもあっさりとしている。

千年王国を築くというドイツ兵の文句は《無防備都市》でも登場したが、このくらいの現場感のある兵の台詞の方が、その誇大妄想さが極まってみえた。

葦のなかを小舟がゆくシーンがいくつも登場するけれど、これも巧い。撮影側も同じような、今にも沈みそうな小舟から撮っているワケでもないだろうけど、そこまで設備が整っているとも思えないので、やっぱり似たような不安定な小舟にカメラを載せてるのかね。撮影現場の記録とか、ないのかな。

戦闘とは無関係に、葦の草っぱらがむやみにキレイだ。

その他のことなど

一応、エピソード 1、4、6 は戦闘領域でのお話、エピソード 2、3、5 は戦闘領域外でのお話という構成と見てよさそうだ。これを対比したとき、言うまでもないが前者では戦場における悲劇が描かれる。後者では、戦場からふと離れた日常における人間の矮小さ、あるいはその中での救いのようなものが描かれる。それはそれで戦争とは地続きではあるけれど。

だからどうという話ではないが、そもそもなぜ本作は連作形式となったのだろうか? 脚本も、ロッセリーニ監督を加えて 6 人参加しているということは各エピソードごとに脚本が入っているということに違いなさそうだ。

それぞれ異なる視点から、イタリア各地における戦場での、さまざまなテーマによるドラマが、本作のように見事に-そこに異論はあるだろうけど-織りなされるというのは本当に凄い。この一言に尽きる。