先日に感想を残した《書を捨てよ町へ出よう》と同時上映であった。こちらのほうが、まとまった作りなので鑑賞しやすいかな。積極的に人に薦められるとも思わないが、おもしろかったさ。

この作品もメタ構造をとっている。もっとも特徴的なのは、登場人物の顔面が例外を除いては白塗りになっている点だ。例外がどのような基準であるかは分からないが、推測するに「作中の作者の意図を越えた(と描写される)登場人物には白塗りがない」のではないか。つまりそれは主人公をそそのかした人妻であり、その彼氏であり、あるいは主人公の貞節を奪った女性であったりする。他は忘れた。

大雑把に話は以下の 4 つがあり、「少年の主人公が田舎を飛び出そうとする話」「子を生んだ女がその子を手放す話」「見世物小屋の空気女が夫に捨てられる話」「青年の主人公が過去の改変を試みる話」がある程度まで並行して進み、結末にかけて徐々にクロスオーバーしていく。いや、見世物小屋の話も関連することはするが、それ以外の 3 つの関連性のほうが強い。

言い換えると「少年の主人公が人妻と田舎を脱出する」までが青年の主人公の制作した「過去の回想作品」だが、これで本当にいいのか? と彼は悩む。そして後半は「実はこうだったのではないか?」という虚現実の入り交じった内容になり、それは「逃避行の失敗」であり、「青年に唆された少年は偶発的にも貞節の喪失」に遭遇し、「ようやく母なるものと折り合いがついた青年がいたのは新宿の雑踏のなか」であった。

ネットに転がる感想を読むと、寺山修司のテーマとされる「母殺し」についてのコメントが多いが(これは原作の詩を意識してのことだろうか)、私は《書を捨てよ町に出よう》にも描かれた「少年の思わぬ貞節の喪失」のほうが気になった。前作以上にその描写は強烈で、なんといっても仏様の眼前での強行である。まさしく神も仏もいないのだ。これも寺山修司自身の自省的な面が強いと考えるのが自然と思うが、どうなのだろうね。

田舎と母の呪縛というメタファーに時計が使われている点もベタではあるがおもしろく、「時計は家族にひとつあればいい、バラバラの時計があってはいけない」という価値観が母を自縛している。そうは言うものの、家の時計は狂っているし、終盤には狂った柱時計がたくさん掛かっている映像も用いられる。

母といえば少年が家出したのち、板間の板をひっくり返して出したスクリーンに恐山の上空から少年を発見するシーンがあった。これはいわゆる特撮なのか、どうやって撮影したのか分からないが、板間の裏が遠隔地を映す装置になっているという発想にはやられた。当時にしても珍しくはないイメージだろうけど、発想元は何かあろうのだろうか。私は『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』を連想してしまった。

見世物小屋については、ここでも性的なイメージを喚起させる目的を強く感じるが、あんまり深く考えたくないし、逆に、単体ではここが一番楽しかったかもしれない。よく知らんが、ここの登場人物は天井桟敷の方たちなのかな。

なんだかんだと書いたが、思い出してみれば、人妻の実家の田畑が寂れていく情景が鑑賞中はいちばん心に響いた。田園で死んだのは一体なんだったのかね。

Comments are closed.

Close Search Window