《ゲームの規則/LA REGLE DU JEU》を観た。ジャン・ルノワールの作品としては、前回の《大いなる幻影》に続いて 2 作目の鑑賞となる。1939 年の作品だが、完全版となったのは 1959 年らしい-下記のリンク先記事に基づく。

スコセッシおすすめ外国映画マラソンの 6 作目となる。本作については、Wikipedia に単独記事が存在せず、人名などは以下の allcinema というサイトの概要を参考にして書かせてもらった。

不倫を扱った作品で発表当時は不評に終わったという前評判を確認して臨んだが、結果としては今回のマラソンでは現時点で、もっとものめり込んだ作品となった。全体的に、特に後半の展開は狂気とユーモアに溢れており、画面にくぎ付けだった。

どうやって感想として切り出そうかな。あらすじから述べる。

ロベールという伯爵がいる。彼には愛人がいるのだが、彼の妻のクリスチーヌにも愛人:英雄パイロットのアンドレがいる。ちなみに、アンドレを紹介したのは彼女の旧来の友人であるオクターヴだ。オクターヴだけちょいと年齢が離れているようだ。

ロベールは彼自身およびクリスチーヌの浮ついた状況を清算する目的も兼ねて、彼の別荘にそれぞれの愛人を含め、貴族クラスの人らを集める。狩りを楽しんだり、仮装劇を楽しんだりして、終いには乱痴気騒ぎへ発展する。

物語全体の後半にて、仮装劇から騒動に移行していくが、直接の発端は別荘の狩猟区域の番人:シュマシエルとその妻:リゼット、元密猟者:マルソーの 3 人が引き起こした痴話喧嘩となっている。広い屋敷内で繰り広げられるかくれんぼと鬼ごっこ、決闘騒ぎ、垂れもせずにうまく撮られている。バカバカしいけど、面白い。

狩りのシーンにどんな重みがあるのかしら

別荘到着の翌日は日中に狩りに出る。この狩りの描写がやたらと丁寧だ。兎は地に転げるし、鳥は墜ちる。割と延々と続く。どんどんと倒れるし、どんどんと落ちる。痛々しさがある。私の少ない映画鑑賞歴から思い出される他の映画の印象的な狩猟のシーンのいずれと比べても、どれよりも強く厳しい。

なんだろう、これを上手く消化できない。まぁ残酷だというのがひとつ。そして、これが貴族たちの遊戯に過ぎないというのがひとつ。そして、後半の騒動への導線であるわけだが、どういう作用があるのか。全体像の享楽性を強調しているのでは、と思えば納得できなくもないが、そうなのかな?

非日常的な状況へ引きずり込むという意図はあるだろうか。うーん。

クリスチーヌの本心はどこにある

仮装劇が終わりに差し掛かったところで、クリスチーヌは上記で紹介した以外の男と乳繰り合うべくかしらぬが、こっそりと裏方へ流れていくのだが、この辺からしてもう異常な光景が連続する。

まず、主要登場人物たちの演技後、髑髏様の衣装を身に纏ったメンバーによる劇が始まる。薄暗くなった会場で、明滅するスポットライトが、並んで鑑賞する主要登場人物たちを照らす。カメラも左から右へ追随する。

この瞬間を縫って、夫でも渦中の愛人でもなく別の男と遊びにいくのかクリスチーヌよ。という想定外の事態と並行し、上述のシュマシエルとリゼット、マルソーの追いかけっこも本格化する。状況を転換させてクライマックスへ雪崩れ込む直前の、このシーンが 1 番好きだね。

ところで、狩猟の終了直前にクリスチーヌは、夫:ロベールと愛人の別れの挨拶を望遠レンズ越しに目撃してしまっている。これは遠目には別れに見えないので、彼女は勘違いを起こしているわけだが、この作品ではこの勘違いが重要な要素とされているようには見えなかった。女の奇妙な連帯のような描写はあったが、これもなんか有耶無耶と泡となっていくし。

何が言いたいかとしては、クリスチーヌの心理が難しくて、そもそもロベールとクリスチーヌの本望が明確でない。ロベールは結婚生活を諦めかけている描写があるもののやり直しもまんざらではなさそう。

だが、クリスチーヌ自身はそもそも問題の深刻さを、さほど表わさない。彼女のそもそもの浮気相手として仕立て上げられたアンドレにしてもほぼ一人相撲だ。階級の問題もあるんだろうけれど、この辺は文脈を読めていないのかな、とも感じた。

礼節あるいは男の友情とは

ロベールは気まぐれに密猟者マルソーを、半ば彼を哀れに思いつつもか靴磨き担当として別荘に雇い入れる。マルソーは身分違いのご主人に対してかなりフランクな態度で接して、ロベールもそれを許す。この関係がおもしろい。

言ってみれば《大いなる幻影》でも階級-身分の差を持ち出しつつも、その融和のような状況を描いてみせていた。監督のテーマなのか、得意とするとところなのか。

アンドレとロベールのクリスチーヌを巡った諍いも、落ち着いてみれば相互を尊重して認め合うような展開になっている。これも笑いどころで、泥酔した女性のケアなどを率先して協力しているあたりがユニークだ。なんというかね、ホモソーシャル的とでも言っていいのかね。

そんななかでシュマシエルだけは哀れなんだよな。これは狩猟というモチーフと結びついている部分があるのか、結婚のあり方についての示唆なんだろうか、彼自身に自業自得的な面があるとはいえ、かなり可哀相ではある。

こんな喜劇はあんまり見たことない

本作について、いくつかの目にした説明や感想で「悲喜劇」というキーワードがあったが、私は本作は完全に喜劇だと思う。もちろん喜劇というのは根底に悲劇があるわけだが、それでも本作における悲劇は完全に道具以下の機能しか果たしておらず、言うなれば不条理ベースのコメディと捉えたほうが見やすい気がする。

やっぱりね、哀れなシュマシエルが何処をとっても狂言回し、かつ道化でしかないのがポイントではないか。そして、そのせいか、たしかにクライマックスに悲劇はあるんだけれど、これも悲劇というよりはギャグの範疇に感じられた。

あるべき終着点が見づらいせいでもある。誰が悪いともいわないが-だからこそ悲劇たる面はあるのだが、いかんせんクリスチーヌがどうしたいのか、ある程度予想された展開ではあったが、最後のそれですら半信半疑にならざるを得ない。実際、起きる事件はそれゆえの結末でもある-直接的にはクリスチーヌのせいではないにせよ。

本作は、どこまでも俗な内容なのだけれど、笑わいどころの魅せ方はなんとなく上品さを装っているというか、そういう面が強い-もともとそのような戯曲が元ネタらしいけれど。

しかし、監督がオクターヴを演じているとは恐れ入った。そりゃないよ笑。

上述したように狩りの情景や仮装劇でのライトとカメラの動き、屋敷の騒動のシーンやクライマックスのカメラワークは特別感というほどは感じなかったけど、決まっていて好かった。植物園を覗きに行くシュマシエルとマルソーのカットも好きだね。

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