あるいは、もっとメディア(プラットフォームでもいいけど)は、その存在自体を意義付けできないのか。

映画の界隈で炎上というかボヤみたいなのがあったらしく、はてなブックマーク、はてなブログとおよびnoteで記事を書いている方がバチッており、Xも経由しているようだが、これは引火剤として大きく機能してるのは、はてなに思える。詳らかには調べていないけれど。

内容については、どちらが正しいのか、妥当であるのか、ただのすれ違いであるのか、それも判断するところではないのだが、うーんと思ったのは、大元となったのが①メディアに掲載した記事で、②noteにて言及、③それが著者に届いてはてなブログで反論、のような経緯をとったらしいことだ。で、はてブや増田(アノニマス)で延焼しているところを私は見ていた。

この雑記の本題に入るというか、大した意見ではないのだが、著者は反論する価値判断を①のメディアに委ねるのが理想なのかなという点だ。もちろん、言論の自由を持ち出すまでもなく、インターネットは自由なので、クロスプラットフォーム(これはサービスを意図した言葉遣い)的にやり取りをするのは、あるメッセージを出した者、受け取った(と認識した)者、それぞれの自由ではある。

一方で、メディアを介した発信というのは、最終責任は著者にあるとはいえ、著者はメディアの意図を汲んだうえでメッセージを出力しているわけで(編集が介するってそういうことだろう)、読者(外野)が反応したとき、それは少なくともメディアを通して解読されるステップがあるべきなのでは、という問いかけなんすよね。

これが学者同士のやり取りだとか、ある領域の専門家同士のやり取りだとかであるなら、メディアの存在の必要性は相対的に低い、あるいは下がるのだろう。ところが今回は、いわば素人同士の殴り合いなわけで、片方が別のなんかの専門家らしいからややこしさを増しているようだが、いや、だからこそメディアがここで働かない(働けない)のがもったいないなと思う。

インターネット以前は、そもそもメディアが限られていたから、ルール(というかフレームというか)がそれなりに整っており、やり取りが不毛であろうと実を結ぶものであろうと、それなりの統制(内容を律するものでなく話の運びを統御する意)が取られていたのだろう。あるいは、限られた壇上に登ってくるまでに、論者らしき人々はマナー(業界内ルールを指すというよりは、スマートさという意図)を身につける機会もあったのではないか。

これがおそらく論壇というやつだったのかな? って議論も何度も続いていたはずだけど、最近はむしろあんまり目にしなくなったかね。

私は編集という行為が得意ではないし、そこに思い入れがあるかも危ない程度の人間ではあるけれど、どうもこのへんのファクターをコミュニケーションをとろうと志す人間は、なんとかできないのかなとは思う程度には、しょうもない諍いを少なくしたいなと、傲慢にも考えている。

あるいは、スピーディーさに欠けるんだろう。登壇者が増えるとそれだけ意思疎通のコストが増えるのも当然である。でも、じゃあそのスピーディーさ、あるいはそれを前提としたコスト意識って必要なのか? と言うと、エンターテインメント的な消費目的以上には必要ないんだよな、おそらく。

で、結局、そこに堕してる。

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