3時間のワケわかめ映画と聞き、私好みだと断定して『ボーはおそれている』を観てきた。よかった。これはよかった。よく確認せずに「ポー」だと思っていたら、作中の字幕では「ボウ」だし、見終わってから確かめると、当たり前だが「ボー」だった。そんな作品でした。

オチに触れてます。

もともと『ヘレディタリー継承』をワクワクしながら観にいったら、終盤まではワクワクと楽しんだものの、それが期待のママ終わったので飽きれ、その経緯で『ミッドサマー』は魅力的に感じず、個人的にはスルー側の監督かなと、というところでの本作ですよ。

鑑賞後には「不条理劇」や「悪夢」が当てはまる気もしたが、今作はボウ自身が終始そこまでまともな状態ではないので、彼(視聴者である私も)が不条理に巻き込まれている、という印象は起きなかった。特別奇妙なのは、中盤の家庭での展開くらいだもんな。悪夢といえばそれもそうかもだけど、やっぱり、いうほど変なことが起きているイメージはない。

ところで、本作は「悲喜劇」、作品ジャンルとしては「喜劇」としても扱われているらしい。終盤こそバカな種明かしでそこまで笑えないけれど、序盤から中盤にかけてはギャグが豊富で、ひとりでクスクスと笑っていた。

前提:アリ・アスターはオチが苦手やろ

『ヘレディタリー 継承』がバカウケした理由がわからなくて、見せ方はうまいんだけどすべてが台無しというか、B級映画的な(と言っていいのか)楽しみ方をするならいいんだけど、世間の反応はそういう風でもなさそうだった。監督のテーマが「家族の因縁」なのはいいけど、だったら尚更、あのオチはしょうもなさすぎるやろと。

本作も似たところはあって、いくつかある軸のひとつはやはり解釈しづらく、あるいはバカバカしいオチなのかもしれない。だがまぁ、今回はそこから、やはり在り来たりな感は否めないがひと捻り、ふた捻りされており、それをもって道中の笑いが報われた気がした。けど、やっぱり上手いとは思わないけどね。

ボーはよく気絶する

映像作品にはよくある方法だろうが、主人公が気絶なりすると暗転してシーンが切り替わる。これが本作、やたらと多い。これを幕と捉えていいかはわからないが、そういう感じなんですかね。便利なのはわかるが、なぁ。

爆音に包まれて寝落ちたのち、いそいで準備してたらアパートから出られなくなる。水を求めて外に出たら戻れなくなる。なんとか帰還するものの、今度は全裸で路上に躍り出ることになる。なんやかんやでデカい車に轢かれて落ちる

隔離された土地から逃がしてくれるというので、車中で煙草様のドラッグをもらい、今度やヤニクラで落ちる。なんやかんやで土地から走って逃げたら、古木に頭をぶつけて落ちる。森のなかで観劇してたら、いつのまにか主人公になってて劇中でもやっぱり疲れ果てて倒れる

そんなこんなで、ようやく実家に帰ってきたと思ったら、ソファーで寝落ちる。まぁ、そりゃあね。とこんな感じで、よくよく気絶するんだよね、本作におけるボーは。これは、ある意味で彼がどの段階で死んでいてもおかしくないというか、可笑しいんだけど。なんならすべて死んだ場合のパターンをやってほしい。

ボーは親父のようになる

私が考えるところの 2 段目のオチなんだけど、ボーの父親は生きているのか、死んだのか。だとしたらどのように? のような謎がそれなりに明かされる。まぁバカバカしいんだけど、一応いくつか伏線めいた部分があるように私には思え、ひとつは「最初の仲良しで亡くなった」という母の証言だろう。まぁ、ざっくり嘘だったということになるけど。

ボーが曲がりなりにも母の証言に従っていたのは、視点は無限にあろうが、彼が彼自身の死を忌避していたからというのは否定できまい。これは当たり前だろう。

で、もうひとつ伏線めいているなというのは、事故後の治療中にかけられた言葉なんだよね。このへん、まぁハッキリ言って「作者のひと、あんまり考えてないと思うよ」の領域かもしれんけど、これ、ボーは父親のようになるんだろうなという嫌らしい含みがある。使おうが使うまいが、彼のそれは肥大していくわけだ。

本作、母と息子の物語ではあるが、劇中劇のシーンでもあきらかなように、父性を問う部分も多い(なんなら医者の家庭もその視点で見れなくもないかも)。あるいは本当の父というのは不要なのではないか? どうか。

すべてはMWの提供する物語だ

たまたま勘が働いたので、オープニングクレジットで表示された「MW」ロゴに気づきけしたよね。実在する会社かもしれないけど、見たことないな? とはなったわけで、そうしたら、ボーがとる食事、冷凍食品のパッケージには「MW」のロゴ、電子レンジにも「MW」はあったっけ? こっちは自信がないけど。

つまり、彼の生活を提供し、本作を描いているのは MW なわけで、彼自身も MW によって暮らしている。そいで、これも割と早い段階で、母の名が、Mona Wassermann であることが明かされる。はい。この時点で謎はほとんど解けていたんですね。身も蓋もなくなっちゃうけど。

ついでに、この Wassermann という聴き慣れない単語、ドイツ語由来の名詞のようで、実際には存在しない地名のようだが、「水瓶座」や「梅毒」の検査方法「ワッセルマン反応」の発見者である細菌学者の名前などが、挙がるようだ。梅毒ねぇ…。

この性的なものへ距離を取っていくようなアプローチは、個人的にはジェンダーやフェミニズム以上に時代を象徴する方向性を示唆しているように感じる。

孤児であるべきか

やっぱりあの森の中でのグループというか、必ずしも父である必要はない、母もいないかもしれない、という状況こそが、主意だった気もしてきた。

別に社会主義的なスタンスを目指すわけでもなかろうが、ひとは案外孤独でも、あるいは自由でも生きていける、自然とある家族的なものにはなることもあるけれど、そこにはボーや彼の母(あるいは父もか? あるいは医師の家庭も?)が求めたような執着は必要ない。そうであるはず、というようなメッセージ性はなかったか。

もう一度、オチの話をする

母親のオチ、親父のオチ、ボートのオチ、母の提供する物語であったというオチ(というよりは前提)、そこには観客(私たちを含めて)がボーの人生を眺めていたというオチがある。

ボートのオチだけど、他のみんなも似たようなことを思っているのは X で確認したが、ラース・フォン・トリアー監督の『ハウス・ジャック・ビルト』(2018、The House That Jack Built)を見ていると、即座にこの映画の結末が連想される。

これ、完全に参照してるでしょう、アリ・アスターさん、となる。まー、その映画のオチ自体も「ファウスト」なりなんなりを考えれば、特別に珍しくもなさそうだが、感触がほとんど近い。あるいは『トゥルーマン・ショー』でもいいけど、メタ的な視点が二重三重になってる。

最後はステージを囲む観客席から、徐々に人が減っていく。主催のモナの絶叫で終演した劇は、ぶっちゃけそんなにおもしろくもなかったろ。だって、頭のおかしい息子の罪を断罪しようという、マリア様もビックリの性根の腐ったコンテンツですよ、これ。

いや、まぁ、そりゃ爆死映画でも不思議はない。

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