『哀れなるものたち』を観た。『女王陛下のお気に入り』(《The Favourite》、2018)以来のヨルゴス・ランティモス監督が最新作だ。原題は《POOR THINGS》だそうで、Google翻訳の程度だと「御気の毒に」などもあたった。私は『聖なる鹿殺し』(2017)以来の監督のファンなので、喜び勇んで観たわけだけど、うーん、どうかな。

本作には原作、スコットランドの作家アラスター・グレイによるタイトルがある。下記の記事では「奇書」とさえ呼ばれる。本作の鑑賞後、いろいろとモヤモヤしていたが、さすがに原作を理解した記事なだけあって、かなりすっきりした。

ざっくり消化しきれない部分といえば、下記の記事にあるように「そこから見えてくるフェミニズム、単純ではない。」のだ。率直に言って、エンタメとして、そしてフェミニズム的と呼ばれる作品としては、まだ『バービー』(2023)のほうが楽しみやすい、好みではなかったが。

成長とはどういうことか

とりあえず、エンディングから見てみる。

ベラは、ゴッドとはそれなりに和解し、無事に別れを告げた。医師を志した彼女は解剖学の試験が控えているらしい。なんのカクテルか知らんけど運ばれてきたショートグラスを傾けながらテキストを読んでいる。

傍にはパリから呼び寄せた(元?)社会主義者の彼女が並んでリクライニングチェアに横になっている。少し離れた階段で、マックスは添え物のように佇んでいる。バカみたいに幸せそうだ。

そして庭にはゴッドの時代からのメイドと、妹のような立場の少女、山羊(Goat)がいる。いずれも幸せそうである、ということにするべき、という状況にある。そのように提示される、と主張しておく。

これが彼女の冒険が望んだ結末なのか? という話だ。

もちろん、この映画に「クリアな解決!」のような結果は望むべくもないが、究極には皮肉だけしか残っていないように見える風景のためにグダグダと付き合ってきたのかと思うと、あんまりにも惨めだ。過程を楽しめたなら十分、というなら受け入れるしかないが。

リンクしたひとつ目の記事では、監督の作品テーマを「力」と読み解いており、たしかにそれを拾えば、最後の図はわかりやすい。また、そうすると、直截なフェミニズムからメッセージ性は遠くなるだろう。でも、やっぱり、ベラの行きつく先がそこなのかという疑問を覆すような条件はなさそう。それが正しいとしても。

つまり、これじゃ個人的には面白くない。特に、アレクサンドリアの経緯がまったく茶番じみる。これも、茶番であったことを強調するというオチなのであれば言うことはないが、うーん。最終的にベラは、現実主義者を自称するあるハリーを臆病な少年(だっけ)と看破したが、ラストの君は彼と何が違うのか?

たとえば、彼女が自分の選択と行動の結果、そこにたどり着いた、あるいは理想への道半ばだというエンディングであるなら構わないが、やはりそうは見えない。

モンスターは美たりうるか、あるいは醜さとは

人間って醜いな、でもそれも含めて美しいな、ということがあったか? 今作に。

過去作品との違いはここにある気もする。本作には「醜さに魅力がない」といって通じるか際どいが、人物でもシチュエーションでも、風景でも、魅力的な醜さ、汚らしさが無い。あまりない。あるいはそれを所与、あるいは価値判断不可避の条件のように扱っているように思える。

たとえば食欲と性欲、ベラは徐々にそれらを受容し、開花していくが、それだけなんだよな。ただ距離の詰め方をしらないだけで、結局のところ作中ではそれらが何かの代償であることもなく、ただある。それを受け入れ、甘受する。そういうように私には見えた。

特に、後者については、パリにて、最終的にはそれらしく妥協点を模索していたようだが、別にそれもコメディの域を出ていなかった(それで十分ではあるんだけど)。あるいは、私の感性が鈍化しているだけかもしれないが、表現としては滑稽さばかりで彼女の妙な戸惑い(あるいは諦め)以上には、醜くも美しいと呼べるような葛藤がない。成長ポイントが溜まると、次のフェイズでは偉そうなんだよな、きみ。

ひとつ思い当たったのは、ゴッドとベラの和解か。これには一抹の美しさと呼べる愚かさがあったかもしれない。そう考えると本作は、理解していないうえで言うけれど、ヨルゴス・ランティモスの原点的な部分にかかる作品なのか? なんせ、その関係とは美醜の萌芽であり、そこから始まり、そこに至る過程こそを魅せるということなのだから。ウマいこと言ったつもり。

あんまりメタ的な方向に話を振りたくないが。最初のリンクの記事でも指摘されているし、冒頭でわかるが、本作がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』がベースにあることは明確であるが、つまりゴニョゴヨ…。

ゴッドはマッドサイエンティストたる父親に不能にされているが、彼が親になりたかったというスタンスで本作を見たらどうだろうか。うーん、それとして読むには情報がないので難しいが、楽しげではあるかもしれない。

かわいそうなひとたち

「哀れなるものたち」というか「かわいそうなひとたち」と読み替えると、最後の風景の意味がより咀嚼しやすい気はしてきた。お前の国語力が、と言われるとぐうの音も出ないけど。

皮肉にもそこにダンカンは居ないのだが、そしてゴッドもいないが、あの庭に佇んでいる存在らはどれも可哀想という憐みの対象でしかない。やっぱりそういうことでしょ。概ね納得した。

原作があるとはいえ、この極端な話づくりには時代劇を援用しないと厳しかったろうとは思えるが、やはりそれは寓話のような体裁を強め、距離を生んだとも言えよう。

夢も救いもないエンディングであることはいいが、やっぱり、だとしても、どこも美しくない、その醜ささえも。本作は、自明なことばかりで、それを敢えて採用したにしても、いずれについて深入りしない。その中途半端さに味を感じる人もいるのかもしれないが、私の眼にはダラッとした作品にしか映らなかった。

監督はやけくそで撮ったか、既存のアプローチと新しいアプローチの組み合わせでショートしたか、どっちかじゃないのかな。普段はあんまり下手なこと、そして攻撃的なことはそれをそのまま書き残したくないが、好きなだけに、うまく昇華できなかったよ。画面は概ねいつものように、おもしろかったんだけどね。

その他のことなど

  • テーマとして『バービー』(2023)が連想されることは言うまでもないんだけど、美術系は『アネット』(2021)のイメージが引きずられるし、なんなら成長譚としては『千と千尋の神隠し』が思い当たってしまって困った。
  • プレイボーイが奔放な女性にドはまりしてしまうというフォーマットに、それは実は無垢なだけで、というのも過激な描写を除けば(それが重要だとしても)そこまで新奇的なもんでもないのではないか。
  • ダンカンは狂言回しというか、あれはあれでいいんだけど、2人の破局があんまりあっさりしてて、これもこれで処理のしようがないだけなのか、こういう皮肉なのか、よくわからんのだよな。どうしたかったんだよというか。
  • 前2作での森の使い方が好きだったのだが、今作でもイギリスの郊外の公園という体で登場したね。ゴッドとマックスとベラの3人のシーンも悪くないが、やはり後半の2人で歩くシーンは本作で唯一と言っていいくらい自然に見えるシーンだったね。ベラが池岸側を、マックスが森側なのも象徴的であった、かもしれない。
  • エマ・ストーンは、スパイダーマンと『ラ・ラ・ランド』、前作くらいしか知らないけど、ここまで重大な演技をされると、もうぐうの音も出ないね。どのチャプターの彼女が好きだったかというと、難しいね。「SHIP」かなぁ。でもこういう話に持ち込んだ時点で作品に対しては、ある意味で負けな気もする。
  • 動物を組み合わせるというか、ヨルゴス・ランティモスは動物にもこだわるよね。なんなんでしょう。犠牲か大小か、人間性の鏡なのか。
  • 前作のエンドクレジット、役職と氏名が均等割り付けでデザインされていた。これが割と印象に残った方が多かったんじゃないかな。本作は、メインクレジットは額縁のように画面を囲むようにデザインされており、これがユニークだったね。作品で1番おもしろかったよ。

あるいはコメディとして

前作などで触れたっけか、これも前作も一応映画のジャンルとしてはコメディに分類されて公開されているようで、このカテゴライズの実際のところはよくわからないが、一義的にはコメディとして受け取るのがマナーだろうと思うのは勝手だろう。

この映画が、ギリシア、イギリス、アメリカ合衆国、あるいはアイルランド、もしくはリスボン? アテネ? アレクサンドリア? パリ? も含めていいけど、てか世界のどこでもいいけど、そこの誰にどれだけウケるのかわからないけれど、少なくとも日本では、アート系とか、フェミニズム大真面目とかで受け取っちゃう人が多いのではないか。そここそ『バービー』と決定的な差があるよな。

初日レイトショーにて客席は5割あるかくらいだったが、たまに一部のひとのクスっとした声が聞こえてくる程度なんだよね。みんな内心で爆笑している可能性はあるのだが、どうもそれが中心とは思えない。まぁ『首』なんかもそうだけど、爆笑してしまったらヤバい作品ではあるのだが、それにしてもタダの汚いコメディーであるという前提を忘れがちとは言えよう。

でもやっぱり、それも「まぁ面白い」程度なんだよな。

たとえば船上で乗務員がカモメかウミネコを捻っていたシーンがあったが、アレもハイコンテクストなジョークなのかねぇ、前作の鳥撃ちが連想されたが、あちらのほうがよっぽど作中での役割やオチ(まさしくソレ)が効いていた。

するとやっぱり、動物錬金ネタがおもしろいやろ! って監督の気分なのかねぇ。でもなぁ、もう知ってるよ、なんだよなぁ、やっぱり。

似たような感想の映画についてメモしておく

本作にもう少し踏み込む、ヒントになる気もする。

『ハウス・ジャック・ビルド』

この映画も、延々と奇妙な画面を見せられたけど、それは過程としてはそれなりにおもしろかったけれど、オチが、そしてそうなると翻って全体が当たり前のことしか言ってねぇなという感覚に陥る作品であった。

『犬王』

犬王は、舞台を経るごとに呪いを解除していき、美の化身然としていくが不思議にも存在としては陳腐化しくのであった。もしかしたらベラの成長とはある意味での陳腐化でしかなかった、というのが前提なのかもしれない。鑑賞の早い段階でそう断じてたら、印象も変わったかも。この作品は大好きだけどね。

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