2022年の年末だかに《宮松と山下》を観た。これ、よかったなぁ。

去年の半ばくらいだったか、騒動を起こした香川照之が主演だが、本作の撮影は騒動よりも前だったようで(それはそうだろうけど)、騒動の事情もまったく知らないまま見て、わざわざパンフレットまで買ってしまった。

「5月」というユニットが監督と脚本を務めるという異色の映画だった。

このユニットは、佐藤雅彦、関友太郎、平瀬謙太朗の 3 名で構成され、対等な関係ということらしいが、もともとは佐藤雅彦が指導する東京藝大の研究室から成り立ったらしい。また、佐藤雅彦は TVCM やゲームなどのプランナー(なのかな?)として仕事に携わることもあったらしく、湖池屋の TVCM なんかはマスターピースですね。小さい頃から最高に好き。この間、アニバーサリーでなんかやってるのを見たけど、ありがとうございます。

というわけで、パンフレットの内容もおもしろかった。

あらすじのような

40代半ばあたりだろうか、京都は太秦でエキストラを本業にして生計をたてている宮松という男がおったそうな。映画では、浪人として切り捨てられ、直後の別のシーンでふたたび切り捨てられる宮松が画面端に見切れていく様子が、まず描かれる。

さすがにエキストラだけでは生活できない彼は、どこかの山のロープウェーの運行係に月に何度か入っている。映画前半で彼のリアルを描写しているのは、ここくらいだったろうか。前半は劇伴もほとんどなく、ロープウェーのシーンにて、はじめて象徴的な音が入ったと記憶している。

あるカット、仕事からアパートに帰った彼が扉を開くと、室内は外装の見た目よりも整然としており、待ち人がおった。広そうなレイアウトの居室は、リノベーションのきいた物件ならそういうこともあるだろうかと訝しながらも見ていたが、やっぱりそういうことでもなかった。半分くらいは騙されていたので、悔しかったような、気持ちのいいような、そんな体験である。

さきほど、劇伴の話をしたが、音の調整も気になっていた。序盤、劇場の音響の問題かと疑ったのだが、音が籠っているように聞こえた。で、結局はそういう音に聞こえるように調整がなされたいたようで、これはもう 1 度鑑賞して確かめるしかないが、たしかにエキストラ時のシーンの音声は籠っていたように思う。

ほいで後半、宮松が山下に侵食されていくという恐怖の展開がはじまる。エキストラ出演している彼を旧知の友人が発見したのである。なんかこの展開、どこかで見たことあるような気もするが、定かではないなぁ。

新横浜を降りて旧友の運転で新中川だかの駅前に降り立つ宮松は、12 年ぶりの帰還らしいが、妹ということらしい女性とハグするのであった。うーん、この抱擁もすべてを観たあとだとわかるのだが、ほんのりと違和感を与える描写、演技で、上手いもんだなぁ。

異母兄妹、そして幼少期は離れていた山下兄妹は両親の不幸な死をキッカケに共同生活をはじめ、兄はそのために仕事をタクシー運転手に変えたらしい。穏やかな生活がおそらくはあった。それは否定しえない。問題児は誰だ。

画面にチラッと映った彼のタクシードライバーとしてのライセンスは平成 24 年と刻印されていたので、平成 31 年と令和 4 年で作中時間が大体 2022 年ほどだと判ぜられた。

洗濯物を畳む妹が兄の黄色い T シャツを愛おしそうに扱うシーンも作中で最高潮に倒錯的というか、問題が隠されており、それが明らかでもあり、切ないんだ。

こういうのでいいんだよ。切ないんだよ。

気になった点など

ロケーションの話

京都と横浜の近辺が舞台ということでいいと思うが、山下家の所在地はどこなんだろか。新横浜で新幹線を降りたのは間違いないが、車で移動した駅の駅名が「新中川」のような感じと記憶しているけど、同じ名前の駅はないようだし、混乱している。

また、宮下の勤めているロープウェー、京都方面ということなので何となく奈良あたりで撮影したのかなと思っていたが、ロープウェーに記された「バンビ」という号をヒントにすると、埼玉県は長瀞の宝登山ロープウエイらしい。

上記のリンク先の記事をあてにするなら、京都ではほとんど撮影してない可能性もありそうだな。どうなんだろうな。架空の町という可能性は大いにある。

死にゆく男、そうでもないかも

作中で宮下が演じるエキストラ役は、ほとんどが死んでいくが、作中では 2 作ほど死なない役も演じている。意味づけはある、には決まっているだろうが、なかなか難しそう。

特に 2 つ目のエキストラのシーンは普通のようでいてそうでもないような。こちらを眺める彼が観客を相対化しているというにしては、そんなに面白くはないかなぁ。

エキストラ業界では路傍の群衆役と死にゆく雑兵役、どちらに格があるのだろうか。

あるいはほとんどが時代劇の死に役だった一方で、最後のほうでは現代劇の、しかも意味のありそうな死に役もこなしていた。これも興味深い。彼は役者としてランクアップしていっているのかもしれない。

どうして宮松なのか

本作最大の謎にして、多分そこまで意味がない、現実社会における身元不明な記憶喪失者の社会的なフォローアップについては調べていないが(なんなら本作の状況であれば 12 年も見つからないということもなさそうだが)、どうして彼は宮松姓を名乗ったのだろうか。私、気になりますね。

なんとなく《無法松の一生》が連想されるけれど、別に関係なかろうか。

連想した映画の話をする

2022 年に限定すると《林檎とポラロイド》が連想させられる。あの作品も、やはりなんとなくある種の悲しみを記憶喪失とともに描写していた。もちろん方向性はほとんど異なるけれども。ごく個人的な記憶にまつわるパーソナルな作品という意味では、遠くない。

もうひとつは《エッシャー通りの赤いポスト》だ。こちらは、エキストラがテーマであるという点にて連想した。宮松が淡々とエキストラに徹している一方、「エッシャー通り」のほうは役者としての成り上がり狙いのような面が強かったが、これは全然方向が違うな。

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しかし、いずれにせよ何かのために生きるということの、ある意味での欺瞞というか、虚無さというのはあって、その折り合いのつけ方を模索するにはいい映画なのかもしれない。

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