2022年の年末に《すずめの戸締まり》を観た。

新海誠は伝奇が好きなんかなと再確認したが、結論は「やはり SF がやりたいんだな」という認識に至り、最終的にはダイジンのことしか考えられなくなった。

異界に通じる門というモチーフの起源は古く、鳥居もその類だし、本作の終盤でも鳥居を模した描写はあった。逆にというか、過去 2 作ではそれなりに象徴的だった社のような描写は少ない。

また、本作では引き戸も前々作ほどではないが登場したものの、作品を象徴する「門」としては、ほとんどは「開き戸」タイプの扉であった。なので、ひとつだけあった「引き戸」の門が目に留まったが、特に言うこともない気はする。

また、言うまでもなくドラえもんからは「どこでもドア」が思い浮かぶところで、さらに「椅子型ロボット」などという呼称が登場することからも、小さいところでのオマージュというか、気遣いがあった。どこかで目に留まった意見として、かつては藤子・F・不二雄が大長編でテーマとしていたことを、実は割と新海誠が引き継いでいる(どれくらい自覚的かにかかわらず)というのは、考えうるなとは思う。

ところで本作には小説版が上映前から発刊されており、そちらでしか確認できないことも多いらしい。残念ながら読めていないので、これから書くことには明らかな事実誤認も含まれているかもしれない。残念なことではある。

なんか脅威的なものの描写

私としてはミミズのモチーフは、どうみても諸星大二郎のように見えたし、宗像姓のヒロイン:草太からは星野之宣の作品が連想させられ、するってぇと新海誠ってのは、奇っ怪な日本の土着的でドロドロとした物語やモチーフを、自然災害として逆説的に捉え直しつつ、お得意のキラキラとした描写とイケイケのキャラクターデザインで強引なほどにまとめ上げるという剛腕を発揮した、正に令和最新のキメラのような作品を持ってきたなぁ、というのが最初の結論だった。オタク口調である。

一方で、このミミズとその挙動の凡そな描写は、これも私は繰り返して主張しているが、少なくとも「ヱヴァ破」の第8の使徒(TV版では第10使徒サハクィエル? であってる?)の散り際がまず連想され、宮崎駿が《風立ちぬ》は関東大震災の振動における表現もやはり連なって思い起こされる。

まさしく大地を揺るがす大災害として、もう見飽きたくらいの描写だなという感覚にはなる。オブジェクトの妙なうねりと振動、あるいは破裂、雨のような四散、さらにはオマケのキラキラといった流れ、意識されないはずがない。

だが、どうやらインタビューに目を通すとミミズの描写の直引きは村上春樹の短編に由るらしい。

どうして移動先が賑わうのか

鈴芽が宮崎を発ち、定期便で山口、愛媛へ向かう。旅というのは楽しい。なるほど東京か、更にその先へ向かう行程も描かれる。ということは、一種のロードムービーでもあって、震災というモチーフが重複する映画《寝ても覚めても》が連想された。すると抗いようもなく自然に映画《ドライブ・マイ・カー》も脳裏に浮かぶ。

さて、愛媛の小さな民宿で給される夕飯は海の幸が非常に美味しそうで、現地に行ったことのない私としては非常に惹かれるものがあって、訪問してみたいなと思う。そして何故か、彼女の訪問に伴って、民宿はいつもよりも人が多いという状態になる。

次の滞在先は、神戸は場末のキャバレーだが、こちらも彼女らの来訪で「なんかしらんけど普段よりもお客さんが多い」という状況が再現される。どういうことか。

マレビトのようなあり方をそのまま示しているわけでもないだろうし、あまり強調される描写でもなかったが、そもそも廃墟であるところに扉が生まれ、それが開くなり、封印するという行為自体も謎であるのだが、しかし、彼女は場の廃墟化を否定するポテンシャルを持っている、とでもいえるのかもしれない。だからこそ閉じ師としての才覚がある、のかもしれない。

「招き猫」とというキーワードも思い浮かぶが、どうだろうね。

ダイジン……。

椅子の躍動と終末の予感が渋い

本来は四足、しかし、彼は三足で、小さな椅子が駆けて躍動するさまを巨大なスクリーンで眺めるという奇妙なファンタジーに小さな違和感を覚えながらも「とりあえず応援するしかねぇか」みたいな心持ちで画面を眺めていたわけだ。

廃校のガラスの引き戸が「後ろ戸」とやらになるんか、という謎の発見、しかもそれが最後にはパァーンと内側から割れるんだから面白い。この為にガラスの引き戸を選んだのかと思うくらいであった。割れたらアカンやーんという。

でも、ガラスの引き戸から常世にいったら反対側からはどう見えるんだろ?

まぁいいか。

冒頭で暗示された鈴芽の過去や「死を恐れない」と言い切る彼女の姿から推察される東日本大震災との関連性の示唆もほどほどに、《ビバリーヒルズ・コップ3》ばりの観覧車アクションが見られて満足したが、同時に椅子となった草太のバッドエンドも暗示されることで、なにかと情報が忙しい。

椅子は犠牲となってしまうのか。

選択させられるのは誰か

その観覧車を眺めながら《雨告げる漂流団地》でも出てきたなぁと思いながら、いわゆるダークツーリズムのような面を考えさせられつつ、そのほうで盛り上がる文章も生産されるんだろうけれど、愛媛にせよ神戸にせよ、モデルとなった廃墟はあるんだろうかと思ったが、とりえあず調べてはいない。

しかし、《天気の子》での貧乏飯といい、新海誠は手作りジャンク飯に何かしらこだわりがあるのか、ポテトサラダ焼きそばという謎の料理で我々の食欲をくすぐるという控えめながらズルい方法を使ってくるもんだ。

というわけで、《天気の子》のようにわかりやすく犠牲の選択を迫る物語が再演されるのかという不安も生まれつつ、東海道新幹線は車中での束の間の日常的なやり取りには、一旦心を落ち着かせられたりもしていた。

東京は通過点のようで

今作の東京は、重要な切り替えポイントではあるけれど、過去 2 作ほど舞台として重きはなく、登場人物らにとっては通過点といえた。有体に言って、新海誠監督としては、このことは割と重要な変更点だったのではないかとすら思う。

要石のことが記載された古文書の図は『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』に登場した 「古史羅ノ図」を連想してしまい、少し笑う。

しかし、宗像のおじいさんの病室がよくわからなくて、あそこに積み上げられた古書の類は、おじいさんが何かしら調べごとを重ねていたと推測するのが筋だろうが、であれば、それはなにか? 東の要石の位置とかですか?

しかし、東の要石の神様とは顔見知りではあったようだし、よく分からない。東の要石の霊体みたいなのが浮いて出てたんかね。東の要石は解除されてないもんね? おそらく。よくわからないことが多い。

また、もし東日本大震災の発生を軸に考えれば、そのときにおじいちゃんが何かしら動いていた可能性は高い。この面を考察する文章も捗るのだろうか。

北へ

朋也の再登場から東北に向かう行程は、前述のように他の映画も思い起こされたが、個人的に首都高、東北自動車道のルートには思い入れがあり、それだけでワクワクしてしまうね。荒川あたりを渡っていくのは堀切ジャンクション付近と思うが、あのへん特に好きです。

車中のバカバカしいやり取りも好い。

環さんのブチ切れシーン、ここがもっとも、やはり《君の名は。》以降の新海誠映画っぽいなと感じさせられるところで、つまるところ子供の勝手さ、大人たちも相互に処理しきれない感情や関係性の妙など、それを結果的には大人側があられもなく、みっともなく吐露する。いいですね。

一応、物語の背景としては東の要石の誘導によって環さんが爆発したようで、それは何のためにやったことなのか、それはよくわからんままである。なんだったんだ笑。

なんやかんやで超時空や

ミミズが暴れまわる常世の様子というのは、災害のイメージが付与されていることは当然として、不謹慎ながら私に連想されたのは《コンスタンティン》だった。しかし、それって地獄であって、正に大災害の状況というのは地獄のようなのだ。

一方で、要石となった草太の佇む先に広がっているような海というのは、ワダツミのような感じなのかなと思いつつ、あの情景の意味の不明さにも、もどかしさはあった。どういう描写なんだろうね。

結果として「死ぬのは恐い」という、ごく当たり前の心境をようやく口にできた鈴芽の呼びかけに応えるように草太は甦るが、ダイジンのことを鑑みても、凍結中の彼の自意識は、なんらかの状態では保存されているんだろうから、大変だな。

状況としては、ミミズとみずから戦闘を繰り広げていたサダイジン、役目に帰ったダイジンをあらためて味方につけた主役 2 人のダブルアタックでミミズは制され、ふたたびの悲劇はとりあえずは回避された。ここ、ミミズの散りゆく際の煙のようなのが、構図として鳥居のようになっていたね。

地球の地殻エネルギー的なそれは、どうなってんのかね、しかし。

そういう意味では SF っぽくはないんだが。

しかしである。ラストシーンだよ。

常世にて、最終的に幼い鈴芽に椅子を授けた、幼い鈴芽が椅子を受け取った経緯が明らかになるが、椅子が完全に超時空を行き来する謎の物体化しており、これもおもしろい。いや、てかこれ、要するには《インターステラー》じゃね? となるよね。

もちろん、いくらでも似たことをやっている作品はある。

ダイジン、あるいはサダイジン

要石の猫、もともとは人間だったんじゃないかという読みもあるようだが、どうだろうか。式神様のような雰囲気もあるけれど。

ここまでチラチラと書いたように、西の要石とやらがあんな場所にあったこと自体が問題のような気がするが、ダイジンとサダイジンの体格の差というのは、正にそれというか。

つまり、人の多いところでは神格を保っていられるけれど、そうでない場合は瘦せ細っていったように見受けられる。信仰されない神が権能を失っていくというモチーフも、類作を並べても珍しくもない設定だし、そういうもんだろう。ダイジンは鈴芽に認識され、受け入れられたことで活性化したんだろうという話でもあって。

繰り返しになるが、閉じ師としてのセンス(後天的であれ)か、あるいは閉じ師として経験値が豊かな人物がか、あるいはダイジンのような存在そのものが、人を招くことができる、ということなのか、なんなのか。

選択の問題はあったのか

人がおよそ直面せざるをえない問題があるとき、そして前作の《天気の子》から何かを選び取るとテーマとしてみたとき、本作が前作から、前へ進んだのか、それとも後退したのか。そういうことを考える必要があるか? これがよくわからない。

自らの意思の介在も定かではないダイジンのような存在が、みんなを守るために身を犠牲にしていいのか、神様ってのいうのは、そういうことの為に居るんじゃないのか? でも、神様だって仕事を止めたいときはあるよな? そしたらどうすんの? という謎の悩みに向き合う暇が君にあるか?

本作、ダイジンはなんなんだ。どうしてダイジンに、そんな重荷を担わせる必要があるのか。人間椅子が要石でいいじゃねぇか。そこに何の差がある。鈴芽はダイジンのことを思い返す日が来るのかは謎であるが、彼女は目の前の恋に夢中なのであった。

なんか後味悪くなってきたな、これ。話の着地点というか、こまごまな描写で拾えるものはもうちょっとあったのでは? という気もするけれど、まぁ、次回作に期待ということでひとつ。

リンク集

自分の目に留まった範囲でのメディアの取材なり、感想記事などをリストにしておく。不誠実ながら、この文章を書いた段階ですべては読めていないので、特にインタビューなんかと記事の内容が整合しない可能性もあるけれど、多分直さない。悪しからず。

皇居的なモチーフに絡めて、近現代の天皇制を問うような文章、みんなこれ本当にテーマだとか面白いとか思って書いてんのかね、と個人的には思うのである。

しかし、あれですね、ダイジンの犠牲というか、そこを気にして文字化するまで書いている人はあんまりいないのかね。むしろこっちのほうが超絶スーパー重大トピックなんですが、私的には。

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