《東京2020オリンピック SIDE:B》を観た。

《東京2020オリンピック SIDE:A》は未見であった。オリンピックの開催には反対であったし、人付き合いの場での数えるほどの観戦を除いては-それもコロナで少なかったわけだが、開会式も閉会式もほぼ見ていない。次々と沸く醜聞にも嫌悪しかなかった。開催国というのはどこもそうなのかもしれないが、始まる前からオリンピックに疲れている。そうでしょう。

今回はオリンピックという鍋の中に、東北の復興アピール、コロナ禍への対策、あるいは男女平等といった味の濃すぎる具材も混ぜ込むことになっている。

こんなのすべてを前面化してしまったら、バッハ会長でも森会長でも料理しきれないだろうし、いわんや映像化を任された監督をやである。そういう仕事だったと心に留めておきたい。

で、私は河瀨直美氏の映画なんて見たこともないし、あんまり興味もないのだけれど、この映画はこの映画として、巷の評判はあんまりよくないようだけど、野村萬斎のインタビューがあるというので、観にいった。残念ながら、ポジティブな面も皮肉をも綯い交ぜした面白いドキュメントだったと思う。

老いたる老兵たちの国への賛歌

男女問わずに顔のドアップが多い映像だが、いかんせんおじさん、おじいちゃんが多いので、なんだか心が疲れてしまう。特に冒頭は多かったね。大スクリーンで繰り返して映すものでもない。狙い通りだろうけれど。

本映像でフォーカスされて登場する人物たち、子供以外のなかでは、おそらくバドミントン男女ペアの 2 人がもっとも若かったと思うが、その他のスポーツ選手、若手コーチ類を除くと 30 代のスタッフなんてインタビューに応えていたか?

メインスタッフ、特に幹部クラスの年齢層が高いのはいくらかは仕方ないだろうとしても、やはりツラい。なんとかならんかったんか、インタビュー対象は。雑務係でもいいから若者スタッフのインタビューをさ。

まぁ、置いておこう。さて、それらの登場人物のうち、最たる主役の 1 人は森さんだろう。また、なんやかんやで彼が東京オリンピック開催に最たる尽力をしたというのは事実であったろう。

特には、退任前後のインタビューで彼からは「(政治家として)やってきたことを後悔したことは無い」という発言と「これで(あのタイミングで辞任して)よかったのかと振り返っている」という、対極するような旨の発言を取っている。括弧内は私による補填であるし、全体的に誤読の可能性もある。だが、まぁ彼の失敗らしき経過の扱いは十分だったろう。

なんにせよ、森さんだって彼自身の独自のパワーは行使したろうが、その権威や権力の強さにおいたって調整やらで苦心してるに決まってるんだ。実働部隊を動かすだけだろうとしても。

しかし、森にしても橋本聖子にしても、やはり東京オリンピック 1964 が今回の開催の大きな動機であることは、ドキュメンタリー中においては隠していない。今回の 2020 の開催が、私たち社会のためになると信じている。なんでそんなに?

若者たちのスポーツは

スポーツ選手のトップフォームってのは、一部の競技や選手を除いてはやはり20 代に最盛期を迎えるのが一般的と言ってよかろう。つまり言うまでもなくオリンピックの主役たるは若者たちなのである。

当たり前やん。

いやね、劇場でスクリーンを眺めながらあらためて気づかされたって話ですよ。

子供が、体育の授業、地元のスポーツクラブ、放課後の遊び、何でもいいけれど「身体を動かす」という行為を、自己の興味や適応、人間関係のなかで相対化しつつ、自分のものにしていく。

この根本的な部分が身心の成長とともにあって、苦手や得意にかかわらず、それなりには必要であるはずの能力として、最終的には死ぬまでそれは、求められるはずだ。

たとえば水泳なんて本当に苦手な子でも、中学の 3 年生までには、おっかなびっくり足をつきながらでも少なくとも 10m や 20m などは進めるようになるのが、日本の義務教育課程であるように思う。例外はあるだろう。

いずれにせよそれが、できなくてもいいけど、得意にならなくてもいいけど、試しておいた方がいいし、できたら何となくいいし、楽しめたら最高! くらいの「身体を動かす」行為であり、学びであろう。あんまり使いたくない表現だけど。

その「身体を動かす」が楽しい、得意だという子が努力を重ねても、手に数えられる人数しか辿り着けないのがトップアスリートなワケだが、ここで主張したいのは、これらは平等-これは多分に建前ではあるが-なスタート地点から細かれ太かれ地続きになっている事実だ。

端的に運動というとき、部活動やスポーツを取り巻く諸々の問題なんて腐るほどあるワケだし、結局のところ「身体を動かす」を苦手をするひとなんて悲しいくらいに多いけれど、それでも上述の根本原理を否定できる日はこない。

翻って、オリンピックへの根本的な信頼やその理念にも、揺るがしようのない部分が、このようにして在る。上記の森や橋本も同じようではあったが、作品内では、バッハの無垢さが演出されたインタビューがさらにそれを強調していたね。

話が散らかったけど、つまるところオリンピックが若者世代を鼓舞する-あるいは鼓舞された体験があったという懐古的な-目的があることに反論しづらい。

同時に、河瀨監督の作風はしらぬが、具体的な部分でも、抽象的なカットでも、子供たちに未来を繋ごうというメッセージは作品内でも一貫しており、これが本作の形の一部になったのは、誤りでもないのでしょう。陳腐という反応も見たけど、ほんならお前は子供の減る社会でどんなリアクションができるんだと。

ただ聖火リレーを応援する少年を否定する言葉を用意するのはなかなか難しい、少なくとも私には。

あぁ、日本の文化は

オリンピック開催とその運びについて最大の軋轢であったと思われ、それについては嫌悪をもっとも強く感じたのが、演出チームの動向だったが、本映画では野村萬斎、MIKIKO の両氏のインタビューがあった。

野村萬斎は座長のような役職を務めていたが、ギリギリのところで降板してアドバイザーに再任されている。内側の人間に留まることによって下手なことは言えない状況ともなったろう。

しかし、その野村萬斎のインタビューは、電通と話が通じなかったという旨をはっきりと述べており、佐々木何某とも同席した会見では、その軋轢が隠しようもなく映されていた。

電通以外にこの大型案件を回せないというなら仕方ないし、それを主導できるのが佐々木何某というなら、最初っからそういう座組にしとけという話であって、結局のところいったんは座長を引き継いだらしい MIKIKO だって不当な手順で離脱させられた、というではないか。

インタビューでの彼女はもはや、どうでもよさそうだった。残念ながら。

挙句、佐々木何某は、LINE 会議だかでの発言が晒されてこれも降板した。統制がとれていないにもほどがある。いまとなっては LINE での発言それ以前と以上に、彼への信頼も現場を回すには求心力を失っていたのだろう。

結実的には、本作中では、森山未來と市川海老蔵の演目がチラチラと映されて、それぞれのインタビューもワンフレーズ程度がまとめられ、なんとか日本文化を取り繕おうとしていたが、もう何のことやら皆目わからん。

わからせるつもりもないのだろうが、こうなってくるともはや笑える。皮肉半分、ジレンマ半分という意識が垣間見えた。

ただし、この局面では逆転的ではあるのだが、本作は雨天の中を去っていく野村萬斎(だったよね?)のカットをもってして、切り刻まれた日本文化を、切り刻んだ表現のなかであらわしたのではないか。

それはおそらくには彼に寄り添っていて-少なくともそのつもりであって-、いわば好意的だったように見えた。なんて言っておくと、だいぶそれらしくはある。

森辞任の巧妙とは

全体的に森さんの活動、ひいてはオリンピック全体の進行に沿った視点を紡がねばならない仕組みがある本映画の進行のなか、彼の辞任というオチが本作全体にどういう効果を生んだのか。ざっくり言って女性の活躍の場を増やすということで、そうせざるを得なくなった。そういう意味では、成功した、というメッセージになったか。

すべての新たな女性の役員らの発言を子細には覚えていないが、彼女らが選ばれるに至った立場、活動なりを刻々と表明したシーンはやはり断片的ながらもカットが割かれていた。もう事は大詰めに至って、なんでまたこんなことが実施されているかかという雰囲気でもあったが-あくまで形式的に森の失言とされた状況が再現されたような状況にもなっており、皮肉であったね。

やり直していくしかないのだ。

おいしい食事を届けたい

会場の食堂なんかの責任者-便宜的に料理長と呼ぶ-の追跡にもシーンが割かれていた。なんなら全体像のなかで一貫していたのは料理長である彼、および彼らスタッフの仕事くらいであった。

ぶっちゃけ、このストーリーだけでも映画になるだろうし、そしてもっとも面白いとも思う。彼による「縁の下の力持ち」や「セミの一生のようだった」など、味のあるコメントも多かった(実際の発言とはやや異なるかも)。

コロナ禍前の試食会、ナンプラー(だっけかな)を足して「これでイケる」なんてシーンを映してのちに「期待していたより全然美味しくなかった」という試食会の参加者のキツめのコメントをしっかり撮っている。笑える。

しまいには、コロナ禍でスタッフの集まりもままならない。それでもやるしかない。良くも悪くも、現場の彼らには使命感があった。現地での料理は美味しそうだし、「SIDE:A」 は知らぬが、もっとも選手たちの日常を感じさせる現場らしさに-ほんの数秒のシーンだったが、ついつい感情移入してしまう。

スカイツリーをバックに、早朝の隅田川を自転車を漕いで渡る彼を映したカットは最高のシーンだったろ。

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病院に届けるとんかつ屋さんのエピソードなんかも似たものがあったけど、これはオリンピックというよりはコロナ禍の文脈にて採用されたシーンで、かつそこはやはり子供という軸もさりげなく織り込まれていた。お弁当が美味しそうだったね。

本作がオミットしたらしきもの

そんなもんはいくらでもあろうけれど、以下の記事などを読んで気になったことだけを残しておく。

安部さんは必要なのか

五輪の延期を決定した人物は重要じゃないのという話だったけど、どれくらい彼が重要なのか。

東京五輪の誘致に全力を注いだ日本の総理大臣、この映画のど真ん中である2020年9月16日まで現役総理であり、辞任後も五輪組織委員会の名誉最高顧問であった政治家に名前も触れない五輪ドキュメンタリーなんてありうる?

と書かれており、御尤もな気はするのだが、オリンピックの延期という事象はどうにも絵にならなくない? いや、それはどうでもいいのだけれど、その疑問の根拠があまりよくわからない。

別に安部を肯定的に捉えようと、否定的に捉えようとどっちでもいいけど-というかオリンピック映画なのでどうでもいいのだが-、中止判断の是非を問いたいなら未だしも、やはりそれは本作がやることではないだろうし、中止されたならまだしも、これは、ただの延期なんだから、時間と画面を割く理由は弱い。

オリンピックに反対するのこと

上記の記事(の有料部分)では、また、監督による現場(主には森さんらしい)への共感やシンパシーのような述懐(パンフレット記載とのこと)を軸にして、オリンピックの外側、反対者たちの視点が抜け落ちているのではないか、との指摘があった。

これ、同じようなことを指摘しているメディアのいくつかの記事にもあったが、これらの指摘こそナイーブではないか。

本作、オリンピックの公式映画なんですよね。ここまで書いてきたように、少なくとも現行でそれなりに正統とされる手続きを踏んで開催が決定されたイベントが、紆余曲折を経て実現されたことを撮ってるのさ。

繰り返すけど、反対派の立場をそれなりに受容して取り上げろって、バランスをとっているつもりでいて、根本的に視点がずれてやしないか。

別に反対派を無碍にしろとも言わないけれど、結局それらが大きな運動にはならなかったのも事実だろうので、本作で取り上げるにしたってどうしたってカケラ程度にしかならないし、開催に対してはノイズであった事実は否定できまい。

バッハがパフォーマティヴに振る舞ったように見えるシーンであっても、厳密にパフォーマンスであったようにはおよそ見えないし、残念ながら英語のままならないか、咄嗟に意見を陳述できなかった反対者を映画側が擁護するなり、配慮するなりの理由もない。

これ以上は特に言うこともないが、下記の記事は(記事全体の 5 ページ目の部分にあたる)ほかの記事らと主張は同じくして、逆の視点の作品をちゃんと紹介しているので、その点はありがたい。

まとめのようなものと木下グループと

映画は面白かったと書いたし、そう考えている。それはそれとして、オリンピックが開催されたことへの疑問と反感も持ち合わせている。メリットはあったのか、それは持続するのか、わからないことだらけだ。

やはり開催しないという決断をしてほしいという気持ちもあった。作中では、宮本亜門も敢えてインタビューにそう答えてくれていた。このカットは割とビックリした。

それでも開催を目指す軸があったのも前提としてあって、また同時に、これらを推進する個別のユニットをしらみつぶしに否定できない。

あるいは、この映画に観客が少ない理由と言えば、もはや最初から日本の大多数は-それとも映画館に足を運ぶような人たちは?-オリンピックに興味が無かったかもしれない。

もしくは、この興業-映画ではなくオリンピック全体の成功面にも失敗面にも、誰も関心が無いのかもしれない。

概ね、私もそうであるけれど。

だとすれば、この状況は、やはり皮肉にも野村萬斎が指摘した面にも似ているようにも思われ、つまり、私たちはわたしたちのすることや、その持続や継続についてほとほと興味を持てないでいる、のかもしれない。その理由が何か、原因が何であるかはわからないけれども。

さて、そこで最後に触れておきたいのは木下グループだ。

あんまり詳しくないのだが、本作の制作会社としては木下グループがクレジットされていた。木下工務店などのグループ会社をまとめるスゴイやつだ。映画製作、配給会社としてのキノフィルムズも存在するが、今回は案件の巨大さ故に木下グループとして参画したと思われる。

で、上記ページのトップメニューをみると[スポーツ][芸術・文化活動]という項目が立っている。グループ本社は、傘下社の個別の事業を総合的にサポートしつつ、日本社会全体の文化活動を奨励する矢面に立っている、ということだろう。

新着情報には、本作でインタビューに応えていた宮本亜門が演出を務めるミュージカルの情報も流れていた。スポーツ関連情報もたくさんある。他にはたとえば、オリンピック前後からの PCR 検査にも相当に注力してるようで、知っているひとは知っているんだろうけど、私は不勉強ながら知らなかった。

このように、コンテンツを支えてくれる存在と、その重要性をあらためて確認できたのは嬉しかったね。

本作がおよそ 3 年間かそれ以上の期間でどれだけ移動して、取材して、撮影して、編集して、はたまた経費を必要としたのかしらんけど、その苦労とそれを支えたであろう映画のスタッフらや木下グループには、相応の賛辞を送りたいなとは。

しかし、残念だったと言えば、20 代~30 代なりのスタッフからのコメントがほぼなかったことかね。スポーツのコーチ陣にはいたけれど。

しっかし、止らんなかったのかね、オリンピック。根本的なプロセスが謎すぎる。んだども、都知事 4 人を経たプロジェクトの重みでもあるんだなぁ。

都民はたいへんだ。

追記のようなもの

この記事、2022 年の 7 月 4 日くらいにざっと書いたまま放っておいたら、安倍さんが凶弾に倒れてしまった。彼について触れた部分も大した内容でないし、なんとなくアレだけれども、残しておくことにする。何かを取り繕うではないが、そういう時系列だということだけ残しておく。

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