アピチャッポン・ウィーラセタクンの《メモリア/MEMORIA》を観た。映画好きの知り合いが愛好している監督で、批評家なり同系統の映画ファンから圧倒的な支持を得ている監督、というイメージがある。

2018 年に《光りの墓》(2015)を見たけど、まぁ寝てしまったよね。今回も例にもれず眠りに誘われたが、そのまま寝落ちしてしまってもいいくらいの心地よさだったが、なんとか落ちることなく楽しい鑑賞とできた。

いつもはテキトーに見出しをつけて破綻した文章を誤魔化すが、今回はダラダラと書くことにした。いつも通り、段落は短めにしていくけど。

さて、物語がだいぶん進むまでわからなかったが、舞台は南米だそうで、のちのち調べてみるとコロンビアだった。主人公:ジェシカはコロンビア北西の都市メテジンで生花業を営んでいるらしく、首都ボゴダと行ったり来たりする。ちなみに、どちらも大都市だ。

このジェシカだが、ボゴダでの滞在初日の早朝、妙な音で目覚める。その正体を突き止めたかった彼女は、音響技師だかのエリナンに協力してもらう。で、それらしい音は再現できたが、だから何ということもなく、話は進んでいく。

話は進むと言ったが、特に進まない。妹から聞かされた妙なエピソード、病院で知り合った考古学者との友情らしきコミュニケーション、川沿いで遭遇した変なオッサンとの交流を経て、結末らしいエンディングにたどり着く。ははぁ。

が、やはり全体像はハッキリしないので、もっと明確なストーリーを求めるような場合、この作品を楽しかったとするのは難しいだろう。静止したシーンの多さや、この状態での間の長さは、鑑賞者にその情景と一体化することを求めてくる、と言っていいのか。

あるタイミングで、音楽学校なのか関連施設か、おそらく何度目かのエリナン訪問時となるが、無人の階段と廊下がフッと映された。この瞬間が、もっとも印象的で、その後の展開を予期したカットのようにも思うし、この話全体のある種の無機質さを表しているようにも思えた。

直後の状況こそが、ジェシカ自身が遭遇する違和を受け入れざるを得なくなった最大の契機であったろうが、さらに挟まれる子気味のいい演奏によって、鑑賞した私も、あるいはジェシカも、束の間とはいえ、そのことをさり気なく忘れさせられる。

ところで、なぜ、エリナンは東京を話題に挙げたのか。コロンビアから地球の反対側がちょうど東京かな? と思ったが、コロンビアの対蹠地はインドネシアらしい。遠くはないので、似たようなものかとも思ったが、いや、やっぱりよくわからない。

トンネル工事のシーン、よくこんなロケーションに出会えたなという驚きがまずあった。これがセットということは無かろう。さすがに発掘シーンは映画美術だろうが、ウソ臭さはそこそこに、なんかまぁ、土中から取り出される骨があった。

そういえば雨が降るシーンは、3つだったかな。4 つとも言えるかもしれない。この雨天が、物語にどういう意味を与えるか。鑑賞者の想像に委ねられているか、そうでもないか。確信がないので明記しないけれど、諸々を流す作用があるといえば其れまでで、であれば、特に後半の 2 つの雨はどう作用しているか?

消えたのではないか。

「俺は記憶装置でお前はアンテナだ」と言うけれど、およそ現代的でない暮らしをしている君でも、そういうのは知ってるんだな。まぁアンテナはいいとして、記憶装置ってテレビも映画も見ないっちゅう割には、という感じだ。

その君が鱗を剥いで加工していた魚だが、あれは川魚なんだろうかね。村を出たことがないらしいが、村の商店なりで購入した魚だろうかね。背後には乾燥させている状態のもあったけれど、近所で獲れるようにも思えない。この村の所在地が分からないが、コロンビアで川魚が捕れる地域もあるにはあるようだが、近所なのかな。

完結した世界、生活には娯楽も藝術も必要ないとするとき、また、まさに記憶装置然として生きる人間にとって生きる意味を外部から問うこと自体が無意味であるなら、そこはもはや現実ではないといっても過言無かろう。そこにどうして彼女が来たのか。

ミキシングルームで、トラックボールを操る 2 人の距離は、彼女の再現したい音を介しつつ、つかず離れずの状態であったワケだが、さいごの居室では、ようやくの接触となった。外をみるとき、窓の格子が目に焼き付いたが、これってどこかで見たことがある気がした。そうだよな。

そしたら、飛んでったな。

雨です。

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