《サマーゴースト》を観た。監督、原案の loundraw のイラストなどの作品は見たことがあるような、ないような、というくらいだが、彼の原案を乙一が脚本化し、それを映画とした経緯になっているのかな。

物語の背景とその説明は最小限のようにみえるが、特にこれ以上説明することもないという設定でもあったかな。

最小限の構成と繊細なアニメーションで、全体的にフワッとしたお話を、しかし丁寧に楽しませてくれたという感触だが、同時に、これをどのように楽しんだと言えばいいのか、やや困っている。能書きはいらない、といえばそうなのかもしれないけれど。

物語の舞台はどこか

廃空港の滑走路が広がる平たい大地が、あるいは彼らが眺める光景が、どういう土地なのかということをずっと考えていた。

Wikipedia によると loundraw は福井県の出身で大学は九州大学だそうだ。乙一も九州は福岡出身だ。だとすると舞台のイメージは九州かなとも思うが、それにしては地平線の向こうまで山が見えないことがあるか? 後半の時間経過をハイライトで描いたシーンでは積雪していたが、九州ってこんなに積雪するのか? などなどの疑問がボンヤリとした混乱を生んだ。

あるいは作中で登場する美術館のモデルは兵庫県立美術館だそうだが、舞台が兵庫県ってこともなさそうだよなぁ、とも感じている。正解のようなものが見つかったら、追記するかも知れない。

20220831:追記

ロケーションについてだが、以前に Twitter を眺めていたら兵庫県でほぼ確定らしい。作中に登場する空港となったモデルとなった空港が神戸あたりから 2 時間圏内くらいにあるという話だった。途中で見渡される水平線も神戸湾なんだろう。雪も積もるというものだ。

死に触れようとするとは

ゴースト:絢音に会えるのは「死に触れようとしているひと」だけらしい。初対面ながら夏休みの気晴らしか、気分転換か、あるいはそれ以外、それぞれ思うところのある 3 名、友也、あおい、涼はそれぞれが彼女に対面できたので、彼らそれぞれが条件を満たしたことになる。

ゴーストに会える条件がファジーにも思えるが、もちろん 3 人ともそれぞれ理由があった。それぞれの「死に触れようとする」という心情や状況、その重みには客観的にこそ違いはあるが、それぞれの気持ちや意識に偽りはない。

この設定で気になっているのは、最後のアレで、どうして 3 人が出会えたのか。この状況にどのような思いが込められているのか、よくわかっていない。

大地の触感はどんなもんか

死んだ人間は空に帰るのか、土に還るのか、単純に悩ましい。本作の想像力は絶妙に両方のいいとこ-悪いとこ-取りをしている気がする。

ところで土に潜るイマジネーションと言えば、忍術でいえば「土遁の術」、ドラえもんでいえば「どんぶら粉」、キテレツ大百科でいえば「潜地球」だろうか。他に何かあったら教えてほしい。

本作では、話の都合もあるけれど、ゴーストが大地に触れる。大地に溶け込む。

これを利用した象徴的なシーンは、決定的なほぼひとつ、あのシーンだったろう。この大地とゴーストとの関係があったからこそ、友也の最後の蛮行も、諸々のギャップを演出するために為されたと理解でき、納得につながった。

この土の硬さ、あるいは柔らかさは覚えておきたい、かもしれない。

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