ひさびさにヒッチコックマラソンの続きです。『めまい』《Vertigo》を鑑賞しました。”Vertigo” はラテン語を語源として「グルグル回るようになる」みたいなニュアンスからできた単語らしい。

1958 年の作品で原作小説があり、こちらはフランスの小説『死者の中から』だそう。脚本には 2 名入ってますね。映画の舞台はサンフランシスコということで、起伏に富んだ街の地形を十分に生かされた撮影となっており、ホテルや美術館、公園、教会などの美しい建築物の使い方、映し方も的確で、やっぱりヒッチコックの作品だなと身に沁みる。

冒頭、主人公のジャックは犯人追跡の途中で高層建築物から落ちそうになり、また同僚は彼を救おうとして落下死した。結果としてジャックは高所恐怖症となった。「めまい」というタイトルは高所恐怖症の彼が作中で引き起こす、その症状を指すということでよいだろうか。また、高所恐怖症の症状として階段で引き起こされる当該シーンの撮影技法は、大変有名であるらしい。どうでもいいけど、ヒッチコックって階段を使うのが好きだよな。

しかし、およそ前半の追跡シーンなどは特に、台詞も少なくて何をやっているのかも分かりづらい一見して退屈な箇所も多く、過去のいくつかのヒッチコック作品に見られるような冗長さを感じなくもない。とにかく話の展開と落とし所がわからないまま-これもいつものことだが、逆に言えばその謎に牽引されて、あるいはただ画面に惹きつけられて展開を眺めることになる。

奇妙な現実に囚われていく

話がおかしな方向に転げ始めるのは、ジャックの追跡がホテルに及んだ時点であって、私は単純に展開の成り行きに期待してしまった。進行している事態は現実のうちの出来事、マデリンの病質的な妄想に過ぎないのか、あるいは本当にマデリンの曾祖母の残したなんらかの力が彼女に作用しているのか。それらが曖昧になっていく。

敢えて言うと「ヒッチコック=サスペンス」の構図が揺るがない前提で見てしまうと退屈な作品だろう。何かしら現実的な理由づけがなされることは分かりきってしまう状態での鑑賞となるので、すべてが白々しくなるのではないか。本作はそういう意味では、類型の『レベッカ』などよりは楽しみづらい作品かもしれない。

とはいえ、ジャックが彼女に誘われて、かつその魅力にまんまと嵌り、自我を失いかねないところまで到達してしまうという過程の描写は、いつものヒッチコック流の謎のロマンス成分を絡めたギリギリ絶妙な話運びであった。

ついては、私自身のアホさのおかげか、サスペンスという枠組みのジャンル作品として本作を鑑賞することは、およそせずに済んだ。幻想的なホラー作品に、なんとなく現実的な理由が付与された体の作品だったなという印象だ。

本当にただの狂言で終わったことなのか

というのも、ジャックは最終的に彼を騙した側のジュディを受け入れた。それが仮初で始まった関係であり、構図としてはジャックは犯罪に利用されただけだったにも関わらずである。

ところが、その直後にジュディはあっけない最期を迎える。教会の鐘楼で最後に登場した修道尼の影姿は、明らかに恐怖の対象のイメージだった。これはジュディに対してのみでなく、鑑賞者の私にもそう見えた。そういうふうに撮られている。

この事態の意味付けは、いわゆる天罰の形なのか、あるいは彼女が悪魔にでも魅入られたのか定かではないが、物語の経過、結末としてはただの偶然とは処理し難く、奇しくも彼女が演じたに過ぎなかったはずの超常的な作用のしっぺ返しと見える。

とにかくジャックには救いがない

旧友の奥さんに懸想するし、いい関係だったと思われるミッジをも便利扱いしてほっぽってるし、思い人に似た女性に仮装を強いるし、長身イケメン元刑事であること以外にろくすっぽ魅力も見いだせない、ダメダメな主人公ではあるけれど、一番かわいそうなのもジャックだったね。

クライマックスに至っては、彼は錯乱しているよね。ホテルでのキスでの描写がそれを強調しているけれど、ここをピークにしてオチへと展開していく。ラストでは、ジャックはジュディがマデリンの偽物だったと気がついてはいるが、わざわざ現場検証させようとする。

この目的が、高所恐怖症の克服なのか、ジュディへの罰なのか、あるいは愛ゆえなのか、もはや判断できない。皮肉にも彼は最後の場面では、不安定な足場で、眼下の光景を凝視している、できてしまっている。これは彼にとっての小さな救いなのか。皮肉なのか。笑えるといえば、笑える。

CGとアニメーションの共演があった

オープニングクレジットでは、女性の瞳に幾何学模様の光彩のグラフィックが幾重にも回転する。これはどう見ても CG だなぁと思ったが、やはり初期のコンピューターグラフィックの一種と言ってよいらしく、『2001年宇宙の旅』でも活躍したらしい、ジョン・ホイットニー・シニアが手がけた映像とのことだ。

この回転する模様は、実は作中でも提示される。美術館に展示された絵画中のカルロッタ、彼女の髪型、そこに添えられた花束。一方で、カルロッタと似たような装いで絵画を鑑賞するマデリン、そして手元の花束。絵画中の花束が図案化され、アニメーションとなって模様が展開される。

こういう手法は当時にしても奇抜だろうて、なかなか使いづらいと思うが、類例はどれくらいあるのかね。ヒッチコックでいえば、『白い恐怖』でも似たような手法はあったけれど。

逆に、アニメーションが実写を援用することなどは、現代の日本の作品では割と効果的に使われるよね。この辺もていねいに歴史を調べるとおもしろそうではある。

余談だけれど、カルロッタの生前の苦しみや異常性がマデリンを通して再現されるという構図は、なんだか日本のホラー映画を見ている気分になった。というか、私の本作への印象がこのイメージに引っ張られたことは否めない。

印象的なカットとして、マデリンの死後に執行された裁判の終わりにて、ジャックと付添人を映したシーンを挙げておく。天井近いところにカメラがあって、実際に画面の半分近いかそれ以上を天井が占めていた。こういうカットをサラッと入れてくるのが、本当に巧みだよね。

なお、ロケーションなどについては以下のブログの記事がめちゃくちゃ詳細に扱ってますね。いままで知らなかったブログだけど、丁寧な記事だ。

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