映画:《ポゼッション》

1981 年制作(フランス、西ドイツ合作)、日本国内での公開は 1988 年だそうだが、シネマカリテで 40 周年記念リマスターということで上映されていた《ポゼッション》を 2020 年の映画初めということで鑑賞した。偉い体験だった。ホラー映画と認識をしていなかったので、そのことが判明するまでは夫婦間の不和を描いた《マリッジ・ストーリー》(私はまだ未見)に連動した企画かなと思っていた。もしかしたら万が一、その狙いはあるのかもしれないが(笑)、それにしてもピーキーな作品であった。

舞台がドイツであることは序盤の壁の描写から分かるが、作中で使用される言語は英語だ。どこかのシーンで “can” が「カン」と聞こえたので英国英語だろうと予測も立った。登場人物は主人公のマルク、妻のアンナ、息子のボブ(?)、妻の友人マージ、妻の浮気相手ハインリッヒ、ハインリッヒの母、その他などである。

どこかの説明にはサイコロジカルホラーとあったが、前述の通りに夫婦の問題、男と女の問題から、善や悪、神や魂などといったコンセプトが放り込まれる。

膚を晒させる

当たり前だが、服を脱いだ人間の姿というのは人間の最小構成だ。登場人物が他人を脱がせるシーンがいくつかあり、たとえばマルクが息子のシャツを、妻のアンナのワンピースを脱がせるが、そのときの彼は相手の脇に手をやり、やるせない表情をとる。これは戸惑いや断絶だろうか。

一方、ハインリッヒはやたらと屈強な上半身を強調したがる。後半の衣装には笑ってしまったが、彼はアメリカかぶれみたいな役どころも与えられているっぽいので、さもありなん。

本作、ヌードと殊更に強調するわけではないが、肌を見せることについてはこだわりがあるのだなという点を強く感じた。

ハインリッヒは走る

屈強な上半身を強調したがるハインリッヒは本作の狂言回し、マクガフィンといったところか、エッジの効いたキャラクターがおもしろい。ドイツでは母と暮らしているが、アメリカにも家族が居るという。アンナの価値観を揺らがせて、本件の惨事を引き出した原因とも言える。彼の母の述懐まで含めると、またいろいろな側面が見えてきそうだ。

彼の撮影したアンナのフィルムをマルクが鑑賞しているシーンは、マルクの背中越しから撮影されており、個人的には、この映画で一番好みのカットでもあるかもしれない。

人物の二面性をみる

ハインリッヒによって引き出されたアンナの善悪の葛藤は、マルクの知らないアンナの像を現出させたわけだが、その二面性はそもそもハインリッヒにも当てはまることだ。

マルクがアンナを諦めるまでにブチ切れる描写がいくつかある。決定的にヒドイのは冒頭で彼が怒りと失望により何日間か寝込んだあとのシーンだ。起床直後のマルクは、異常な人間のようにキレまくる。私はいっときこの人物を似た別人とすら思い込んだ。

逆に、この思い込みがマルクの二重性を連想させたので、アンナの生み出したものについては予想しやすかった。あるいは最終的にマルクがたどり着いた姿が、この序盤で示唆されていたとすれば上手すぎるくらいだなとも感じる。

屋内に異常な広さを感じる

本作、屋外の構図なんかも素晴らしいが、室内が抜群に好みであった。人間の心理や本質の奥深さなどを表しているのかな。しつこいようだが 5 つあげる。

任務から帰京したマルクが 4 人の上役たちと居る会議室。広々とした部屋の角に長卓に並ぶ 4 人。対面するマルク。ぐるりぐるりと部屋を映す。上級の会議室というのは、広さを持っていることがまずステータスであると思うが、マルクの仕事が何かもわからないまま見せられるただ広い部屋は、最初に目につく(うーん、広い部屋だな)。

マルクの家、マンションの高層にある部屋だが、まぁ広い。入り口付近は狭いようで(広く見せないように撮っているだけだと思うが)、台所、息子の寝室、夫婦の寝室、居間、その隣の部屋と覚えているだけでそれだけあり、ひとつひとつがまた広い(広く見せるように撮っている)。

ハインリッヒの家、これも高級そうなマンションの部屋だが、怒りのマルクが訪問し、アンナがいないかと家じゅうを彷徨するシーンがある。これがまた広くて広くて、どんだけ広いんだなる(と感じさせるように撮っている)。

後半には、ハインリッヒの母を訪ねるが、このときは母の居住空間が映される。これもまた広い広い。全体でどんだけ大きいのだとなる(これは完全に狙い通りに誘導されているなと気がつく)。

息子の通う幼稚園の先生の家、これもまた大きい大きい。異常に大きいし、白くて近代的で美しい。あからさますぎて笑っちゃうくらい大きい。なんなら二階分あるやん。なんなんこれ。どんだけ対比したいねん(あからさますぎて笑う)。

最後に、アンナの隠れ家だがこれも広い。徐々に部屋の構成が明らかになっていくが、その大きさがはっきりわかるのはこの部屋が最後に登場したときくらいではないだろうか。基本的にはがらんどうの廃墟であることが、一層、その意味を強めているように思う(この部屋、キライじゃないんだよなぁ)。

なお、その他の喫茶店やバーなどもやたらと広い。なんでこんなに屋内が広いんだ、この映画は。

と、まぁこのような感想を抱いてた。