《ヒルマ・アフ・クリント展》(東京国立近代美術館)に行く。背景知識は皆無で、具体的なことは何も知らなかったが、展覧会そのものの情報は、何度か目に留まっていた。日本でも初の展覧会ということで、サブタイトルはないようだが、英題は《Hilma af Klint: The Beyond》となっている。
ビョーンド。
Beyond がなにをか指すかと言えば、ヒルマ(以後はアフ・クリントとする)は、抽象画分野の先駆的な人物であった。そういう評価が近年高まっているらしい(1980年代からチラホラと紹介はされていたとのこと)。学芸員の三輪健仁さんの音声(ガイド)および解説(図録)を超ざっくり省略すると、女性という点、スウェーデンという点、神秘主義的(あるいはオカルト)な点、そして作品がそれなりのスパンで秘匿されたらしい点から、彼女の作品のプレミア感が高まったとのことだ。
いつものように、各章別にメモを残しておく。
1章 アカデミーでの教育から、職業画家へ
海軍の将校かなんかの上流家庭に生まれたそうで(城で生まれたと展示中で説明されていた。スケールが違うわね)、彼女の父の肖像画も展示されていた(誰が描いたかしらん)。凛々しい人物である。19世紀末、比較的に区別差別が緩やかだったらしいスウェーデンとはいえ、女性の進学にはハードルが高かったが、そのなかで美術学校に通い、画家となった。
この章では、職業画家としての側面がフィーチャーされている。まずは螺旋階段、幾何的なオブジェクト、男性の人体構造図、解剖された馬の頭部の素描がある。どれも初期の作品かと思っていたが、そこはマチマチのようで、特に馬の頭部の素描は、ほかの3つが1880年代であるのに対して、1901年くらいとのことだった。1903年にイタリアに旅行したときの仕事(年表の説明などを鑑みるに)となんか関係ないのかなと思ったが、よくわからない。
この人物、どうやって生計を立てていたのかなと阿呆なことを思っていたが、この章のタイトルがまさにそれで、展示作品『夏の風景』などは、仕事としての風景絵画であるようだし、『てんとう虫のマリア』という絵本の挿絵2点が展示されていた。この挿絵、展示中には説明がなかったので、なんのこっちゃわからなかったが当地の女性思想家の作品向けに描かれたらしい。ただし、書籍として刊行されたのかはわからんかった。
絵本の挿絵もそうだが、タペストリーやフォーク・アートの模写らしき習作を見ると、その画風は、現代の漫画やイラストと比べても遜色のない可愛らしさというか、柔らかいタッチの人物やオブジェクトであった。要するにバリバリ技術のあるプロなので、どんな画風も可能なのである。この辺はの作品は、宗教らしさは皆無と言っていいと思う。
また、これは展覧会側の意図にうまく乗っちゃってるが、幼少の頃から家庭環境によって、科学(具体的には天文や数学らしい)に接する機会が多かった人物であるという印象が強くつけられる。これは彼女の後半生の仕事にも大きく関連するトピックだろうし、なんなら彼女の抽象絵画(と呼ばれるそれ)の存立にもかかわりそうだ。
というわけで、この章では『習作、馬の頭』が好きですね。グリンとした目玉とダラリと垂れた舌、頭頂に解剖中の人の手が描かれており、ちょっと遊び心を感じる。
2章 精神世界の探求
若い頃から彼女は降霊術やら神秘的なものに興味があったという側面が照らされ、そういう作品の制作に邁進していったという流れになる。この時代の人たちは、もれなく似たようなことをやっているし、なんなら小学生がこっくりさんで遊ぶのも感覚としては似たようなもんだろう。そこに不思議は少ない。
彼女が傾倒したのは神智学、その後は人智学だそうだ。で、「オカルト」という表現が独り歩きしている印象があるので気を付けたいが、まぁそんなもの、ほとんどどうでもいい。
この章では、彼女のサークル「5人」が自動手記しただとかの下書きが主な展示となる。彼女以外の4人は親友であったらしい人物以外は名前も出てこないが、少なくとも画業になんらかの志があった仲間ではあったのだろう。ひょっとすると、アフ・クリントはここで他の4人のインスピレーションも背負って、その後の制作に取り掛かることとなったのではないかとも思う。そうなってくると、その使命感めいた思念も強かったろうな、など。
製作年代不詳とのことで謎なのだが『大きな樹』『ユリを手に座る女性[グステン・アンデション]』が説明もなしに展示されており、これがどの文脈による作品なのか不明(仕事なのか「神殿」シリーズ関連なのか)、とはいえ、たいへん魅力的でよかった。この2作、全体のなかでもメッチャ好きな部類である。
3章 「神殿のための絵画」
おそらく本展の本番はここからであって、鬱陶しい撮影者が増える、増える。増える。
まずは「WU」と銘打ったシリーズのひとつ目。これは前章の下書きの正しく作品化という感じで、抽象画といえばそうなのだが、当然、神秘主義的な意味づけが前提になっている。特にわかりやすい点としては、黄は男性を深い青は女性を表すらしく、要するに生命のなりゆきらしきストーリー性を感じさせられる。
最大の印象と言えば、まずグロテスクさがあり、色はそれとして抽象化されているとはいえ、露骨な感じがある。すべてがそうとは言わないが、直視がキツイ感じもする。向かい合うカタツムリなどもそうだが、根底的にすごく性的に見える。感想として、そう言ってしまうと、かなり雑かもしれないが、似たような印象を受けた人もいるでしょう。麦が描かれている1枚が妙に印象的で、古典的にも豊穣の象徴なんかではあるわけだが、これは神智学でも変わらないようだ。後年も植物は多く、モチーフにしている。
「WU」シリーズの2つ目。エロス。そのままだ。ピンクがエロス的なのっていつからなのか知らんけど、ピンクベースの絵が並ぶ。ただし、展示の配置の都合上、あんまり注目されていた気はしない。ひとつ目のシリーズほど、ビビッドさもないのも印象が浅くなる理由だろうか。あとは後述の「10 の最大物」でのピンクの扱いとの差があるように思え、なんとなく気になっている(ある結実としては同値かもしれない)。
「WU」シリーズの3つ目。モチーフはより具体的になる。アダムとイブのような図であったり、「5人」の利用していた十字のオブジェクト(?)が描かれた図であったりだ。「これまでの全作品(仕事)の鍵」(No.5)が妙ちくりんというか、後述する。
「WUS」というシリーズ。「Invention」と銘打たれた図が5点。なんか心変わりというか、別の観点が加わったような作品だった。「七芒星」シリーズとも記されていたが、星がそんなに重要であるようにも思えない。展示順は次の「10の最大物」の前だったが、これは展示スペースの都合と思われ、制作年は1年だけ前後するらしい。
「W」シリーズ、知恵の樹は「10の最大物」の直後に展示されていた。地球らしきそれと、そこに根付く樹のような何かだ。解説には、樹が脳のようだとあったが、むしろ全体を人体に見立てているんだろう。後半になると骨格のような描写や筋肉のような描写がなされている。
「SUW」シリーズ。白鳥。10点。最高。白鳥も古今東西からさまざまに扱われるが、例に漏れない。とはいっても、白鳥だというのは2点くらいで、どんどん抽象性は増していく。個人的に気になったのは、キューブ:正六面体が現れた点で、部分的にはありがちなイメージな気もするが、根源的にどこからくる像なんだろうか。このキューブは、いくつかの作品にも地味に登場しており、興味は深まる。「10の最大物」の10枚目、あるいは原子シリーズなんかとの関連もあるんだろうな、作家の中では。
祭壇画3点。あらためて、「神殿のための絵画」に綿密なコンテキストがあるなという実感が湧く。あるいは、このような展覧会こそが神殿として足り得る、といっても半分くらいは真実味がありそうな気がしてきた。3点のうち、ピラミッドのような三角形が2つ、具体から抽象へ、そして具体へ還っていくようなイメージと自分には読めた。
色の意味付けはわからねど、ハッキリと金を象徴的に使っている点もわかりやすいような、どう捉えていいのか悩ましいような。
10の最大物
このエリアに着いたとき、思わず声が出たよね。大きさとは、すなわちそれだけで正義、というのはひとつの事実だ。とにかくデカい。
ある日、アフ・クリントには「人生を10点のドデカイ絵画で示せ」という啓示が降りたらしい。40日ほどで10点を完成させたとのことで、笑ってしまう。大きなスペースの中央に2点、3点、2点、3点ずつ10点が四面に配置され、それを囲むようにベンチが用意されていた。ここまでゆとりをもってレイアウトされる展示に出会う機会もなかなかない。多分、30分くらいはここにいた。10周以上した。
それぞれ、青と黄、オレンジ、ピンクと紫の中間色?、ピンクをベースにした色遣いで、幼年期(2点)、青年期(2点)、成人期(4点)、老年期(2点)を描く。
率直にはアフ・クリントの人生観、その哲学がそのまま作品になっていると考えてもよいでしょう。おおよそ幼年期を10歳まで、青年期を20歳まで、成人期を60歳まで、老年期を70、80歳までと捉えるとイメージしやすいかなと眺めていた。余談だが、展示終盤にあったアフ・クリントの年表によると享年は82歳、交通事故によるケガか何かが要因らしい。悲しいですね。
どれもさまざまな印象、視点を与えてくれると思うが、2点だけ言及しておく。「成人期」の作品は、やはりグロテスクな気配があり、苦手であった。しかしそれだけに、向き合わう必要があるなという謎の感覚も湧いた。上述のイメージ通りだと30~40代に該当すると思われ、図も文字も複雑で多い。そして青年期ほど溌溂さはない。点線が多い。
老年期の絵では、ここまで、あまり出てこなかったスクエアが登場する。最小サイズは7×7の形状で主題的に描かれている。次章での説明にもあったが、なんらかの整頓、合理化のような考え、オブジェクトというような形でのまとめがあるように思う。墓のイメージと言ってもいいのかもしれない。
4章 「神殿のための絵画」以降:人智学への旅
「神殿のための絵画」以後、神智学から人智学への宗旨替えの過渡期となるとともに、制作も変わっていく。淡い水彩で滲んだイメージを表したり、「原子」シリーズで彼女なりの理屈っぽい小品を制作したり、神殿そのものについてのイメージを深めたり、などなどのようだ。
解説によれば自分の仕事をまとめるエディトリアル的な作業を彼女自身としても重要視していたのだろうとのことで、そりゃ具体的な目標が神殿の建立にあるのだとすれば、それはそうなんだろうとはなるけれど。人智学のルドルフ・シュタイナーとも交流を深め、自分の作品を生かせないかと何度も問い合わせたとも言う。熱意だ。
原子シリーズなどがわかりやすく、また冒頭でも触れたように、彼女は理科系のことにも目配せ、素養があるとのことで、以下省略。
展覧会の終盤に差し掛かったところで、勝手にまとめると、つまり、既存宗教と科学の進歩が良くも悪くもいい具合に混ざり合った時代の絵画芸術が、抽象絵画(芸術)の萌芽だったのだなぁ、という印象を得たのであった。
5章 体系の完成へ向けて
まぁ、なんかいろいろあった。
破線(点線)、図と抽象画と
WUシリーズの3つ目の「これまでの全作品(仕事)の鍵」(Aとする)、「10の最大物」の上述の作品(Bとする)、SUW シリーズ(白鳥)の作品(Cとする)など、なにか気になる点が共通しているなと考えていたのだが、要するに破線(点線)であった。これは、なんなのか?
Cで明らかだが、この破線は立体物、オブジェクトの目に入る範囲において影、背後に回った部分を指している。算数や数学、図画工作の立体図でよく目にするアレであると思われる。
考えてみれば不思議はない。少なくとも発端としては、あくまで彼女の絵画は何らかの図であるのだからして、一見するとただ平面的な抽象絵画ではあるが、そこには平面では表しきれない奥行きを示す手段が必要とされるケースがおそらくあって、ここではそれが破線だった。
そう捉えると、Aで感じた違和感やBの図の複雑さももう少し読み解ける気がしてくる。破線はただ破線として、という意図よりも先に、なにかしらの立体またはオブジェクトの重なり、交錯を指していることとなる。いや、スッと気づいてた鑑賞者も多いのだろうけれど、私はさんざん眺めていても、気づかなかった。
ちなみに、影部分を破線で表す表現がいつから登場したかについては気になったので、Gemini Deep Research with 2.5 Pro を走らせてみた。古代から中世なんかで既に使われていたんじゃないのという気もするが此れと同定できる証拠はないらしく、18世紀くらいから幾何図法において定着し始めて、現代的にISOで企画されたらしい。信憑性は保証しないけどそれなりにはおもしろいので、出力結果のPDFを共有しておく。
その他のことなど
- チケットの購入時にいつも困るのだが、展覧会を何と省略して読んだらいいか。今回は「クリント展」とオーダーしたら受付の方は「ヒルマ展ですね」と返してきてバツの悪い思いをしたのだが、解説音声なりを聞くと「アフ・クリント」と呼ぶのが一般みたいだ。それはそれでどうなんだという気もした。
- 3章の終わりあたりか今回の展示にない作品も含めた「神殿のための絵画」シリーズの年表図が掲げられていた。2章の展示『ユリを手に座る女性』のような人物画なども含まれており、へえーという感じだ。で、この年表図、「図録に収録されてないじゃん」と怒り気味にザッピングしてたら、カバー裏に掲載されているではないか。編集者の方、大日本印刷さん、流石である。
- 1章で触れた『てんとう虫のマリア』だが、Gemini に確認を取ったところ、甥のために自ら製作しようとした絵本であったという情報もあるらしい(ソースまでは確認しておらん)。おそらくこの甥は、アフ・クリントの絵画を死後に託された人物であり、初代のヒルマ・アフ・クリント財団を創設した人物なんじゃないかな。
- なにかを鑑賞するとき、特定のキーワードに引っ張られることが往々にしてあるが、今回は「オカルト」に引っ張られている人が多いなという印象だった。オカルトパワーで怖い絵、というようなのは、なんか見誤りがある気がする。作者の緊張感や意図がかなり色濃いってことなら、そりゃそうだということだけでは。
- 実際、アフ・クリントの作品を抽象画あるいいはその前衛と見るべきか否かなんてのは専門家に任せればいいと思うし、とはいえ、原理的には図であったろうというのは私自身の判断でもあるのだが、このへんは色んな感想があって面白かった。
Last modified: 2025-05-29