『Attenberg』を観る。
ギリシャ映画である。Athina Rachel Tsangari という方が監督と脚本であるが、製作はヨルゴス・ランティモスで、その絡みで見たわけだ。彼も出演している。この作品の主演の方とのちに結婚したらしい。なお、『KINETTA』の主演の女性が Evangelia Randou であるらしいが、本作でベラという友人役を務めたのが彼女だという。えぇー、ほんとか、凄いなぁ。まるでイメージが一致しなかった。
本作は、父(スピロス)と娘(マリーナ)の別れの物語であって、それ以上でも以下でもない。そこに、少女(成人済み)のセクシャルな悩みのようなものを絡ませて昇華させている手腕には拍手したい。面白かった。ヨルゴス・ランティモスの手がどれだけ加わってるかは知らんけど、監督作ということならヨルゴスの作品よりも好きかも知らん。
撮影地は、アスパ・スピティア(Άσπρα Σπίτια)という町だそうで、英語版の Wkipedia によると1960年代に近所の鉱山とアルミ製造場の従業員を賄うために設立された工業都市らしい。なるほど、当時にしても巨大な都市計画ということで、世界的に影響を与えた建築家とそのグループの仕事であったとのことだ。
主人公の父は、その建築家グループの一員で都市計画を主導した人物らのひとりだったようだが(あくまで作中世界の話)、面白いことに、彼が言い残すには「私は何も残せなかった」「20世紀なんてなくなっちまえ」というような反省というか、死を目前にしての懺悔、あるいは妄言というか、そういった呪詛がひどく印象的だった。チラリと社会派な面がある。
この父娘の妻もとい母は、死別ではなくて離婚によって道を違えたと思われ、それはそれとしても親子はまっとうに其れだったことは、作品全体に渡って描写される。もちろん微細にみていけば不細工な関係性も含むだろうが、終始、相互にいたわりのあった関係であったことは疑いえない。それが理想かどうかは別の問題でもある。
そして、こここで描かれる別れは、乳離れ、もとい父離れできずにいた娘が、半ば無理やりにでも成長していく姿でもあるわけだ。
本作のメインビジュアル。翼状肩甲骨ってやつだろう。一般的にはよくない症状とされるようだが、若い頃にはこのように肩甲骨をつき出すムーブをとれるひと、結構いるのではないかな。身体測定で友人が自慢げに見せてくれたことを覚えている。主人公の少女がこれを見せるシーンがあるのだが、いわばこれは半分は天使(無垢)だったというような象徴なんでしょうね。
マウンテンゴリラの世界では、アイコンタクトで意思疎通ができる。ペリカン(じゃない気がするけど)の個体は生まれた土地に戻ってきて生殖、産卵してまた飛び立つ。などと差し込まれるドキュメンタリーもわかりやすく、一方で、なかば残酷に事実を突きつける。
親子の言葉遊びは、やはりヨルゴス・ランティモスらしさがある。もうそういうもんなんだよな。
何回か挟まれるマリーナとベラの奇矯な歩行踊り、あれはなんでしょうね。あの町への反抗のようでもある。マリーナから見ればベラの奔放さが信じられない一方、ベラにしてもマリーナに対して負い目というか、弱いところがある。そこで2人はバランスが取れていたはずだった。
作中でのマリーナからベラへの提案は、単なるマリーナの過ちだったように思うし、そこにはそれ以上の深みは無いのではないかなぁ。ちょっと深入りにするには理解が及んでいない気がする。
本作では、父娘のあいだで、言葉遊びに興じるシーンが何度かある。
Last modified: 2025-05-01