『オッペンハイマー』を観た。

世界的な公開が決まったとき、日本国内は散々と吹き上がっていたが、蓋を開けてみれば、みんなはそんなに興味なさそうという感覚も否めず、歯痒さを持て余す。

冒頭、ギリシア神話が引用されてベタであったが、一方でサンスクリットの神話なんかも引用し、いかにもであるなぁとなったが、サンスクリットの神話は、実際にオッペンハイマー博士が好んだらしい。

いい映画には違いない。本年になって『哀れなるものたち』『ボーはおそれている』と3時間級の映画を観てきたなかでは、1番中だるみはなかった。退屈な瞬間というのが最少だった。一方で、難しいという声も耳に入っていたので、予習用の記事もなんとなく読んだが、今作が難しいとすればそれは、内容や登場人物というよりは、並行して進行する2つ(2.5くらいかな)の物語の関係であろうし、それすらも別に、言うほどではないようなというのが個人的な結論ではある。

あるいは、5年以上のスパンを描いているので、開発パートと戦後パートで人物たちの容貌がちょっとずつ変わっている。それが馴染まないと、誰が誰だかちょっと分からなくなるということはありそう。だがこれも、そこまで変化してないので、見分けが苦手という場合に限るだろう。

個人的には、この映画の難しさは、ルイス・ストローズの執念深さにあるように思う。彼の経歴はあまりわからないが、冒頭での卑しい靴売りの息子というやり取り、アイソトープ(放射性同位体の件)の輸出だっけかでのちょっとしたバトル、オッペンハイマーとアインシュタインのやり取りに対する過剰とも思われる反応。

これらは言うなれば本作の骨格の半分(大胆にも!)なんだろうけど、いかんせん本作はオッペンハイマーの映画なので、ストローズについてはようわからん。で、多分ストローズを掘り下げると面白いのだが、労力がそれなりに必要なので、誰かに任せる。

キミは平和への希求と理解に貢献するか

少しだけ、冒頭の話をする。

別に、「さて『オッペンハイマー』の公開がようやく日本でも実現しました。皆で見ましょう。そして議論しましょう」みたいなことになるとも思っていなかったし、積極的に望んだわけでもないが、それにしてももう少し反動があるのかなと思っていた。映画系のメディアとかどうなんですかね、偉そうな主張を述べておいてなんだが、調べる気も起きず、私も所詮は其方側なんだけど。

新聞社は、いくつか公開後の鑑賞者の反応みたいな記事をアップしていた。これも十分とは思うけれど、結局そこが限界で、それ以上でも以下でも無いんだよな。

根本的な話、これもトレースする気はまったく起きないが、2023年当時に日本での公開を見送る決定をさせた動き、エネルギーとはなんだったのか? このことについて、何処の誰が、どれだけ自覚しているのかしらないけれど、あえて問うと、その動きは、労力は、為された選択は正しいかったのか、そうでもなかったのか。

というと、後者なんじゃないのか? という問いと、このことを正面切って考える必要は無いのか? という疑問がある。

逆に、なんなら劇場公開は最後までしなくてもよかったんじゃないの、という問いも立てられるワケだ(興行収入はなんだかんだでいい方らしいけれど)。

クリストファー・ノーランが本作を丸っきり「平和のために」作ったとは皆目思わないが、少なくとも本作が誰かを不幸にしたり、実際に起きた出来事に対して思考停止を引き起こそうとしたりといった意図は、これはまったく無かったろうと思うわけで、であれば、やはり話題が最大化された当時にこそ日本でも公開されるべきだったのではないか。

そもそもこんな映画が生み出されなければ、こんなケッタイな悩みなんか生じなかったのではないか? 誰が本作を観て幸せになったか? 誰が過去の凄惨な出来事を正面から捉えたか?

もしくは、劇中の博士の悲痛な表情に導かれて、原爆投下の結果や実情を調べまわった人は増えたかもしれない。そしたらそれは、いいことかもしれない。

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