『花腐し』という小説が 2000年に芥川賞を受賞したらしく、その映画を観てきた。R18 指定というやつで、つまり演者のバストがまろびでること頻りに、交合もかなり直截に描写される。監督と脚本は荒井晴彦(同脚本:中野太)という方だそうで…。
この人物のことをあんまり知らなかったが、あぁこの人かという程度では理解していた。『幼な子われらに生まれ』は観ました。好きです。しかし、よくわからんけど、めちゃくちゃ大御所で、かつ、いざこざの多い方のようだ。なんかありましたな、『この世界の片隅に』のちょっとしたざわつきが。
雑感
エンドクレジットの演出で、私の感想は完全に「平成の作品でよく見たやつだ!」となった。が、よくよく記憶を辿ると節々で平成の作品っぽい演出がなされていた気もする。が、少し考えてみると本作の舞台は2000年と2012年なので、まぁ平成のお話という視点においては間違いない感想ではあるか。平成の映画ですね、これは。
現代の日本で撮影された映画として、ほぼ現代という設定の風景をモノクロで撮影した作品にほぼ記憶がないが、いっても 2012年の東京が舞台とはいえ、描かれているのはほとんどイマジナリーな風景なので、モノクロであることの意義ってのは、カラーで描かれている風景との反転という程度だなとも思う。ラストシーンでは効果的だったので、それで十分か。
撮影場所、新宿のゴールデン街らしき風景はわかったが、それ以外はほとんど不明だね。わかるような撮り方もされていないし。ちゃんと調べればそれなりにピンポイントで情報が集積されているのだろうか。冒頭の雨のシーンに連なる階段の小路が気になるね。
傘と雨と
主人公である栩谷(綾野剛)だが、劇中で3回、いずれもビニール傘ではあるが、置き去るシーンがある。実際には傘は映っていないこともあるので、捨て去られた傘のイメージが勝手に残っているとも言える。傘を放置して去れば、そのあとは雨に濡れる。雨に濡れたら服を脱ぐ。服を脱いだらどうなる。みたいな転換は、あった。
冒頭はそういうことはないが、2回目以降は泥酔しており、それぞれ傘を忘れるには理由があるが、これは本来は栩谷は傘を忘れるようなズボラな人間ではないはずという対比が前提にある気はする。がまぁ、掘り下げて語るには時間がかかりそうだ。
物語の展開というか、時系列にしたがって傘の忘れられた情況を追うと、陽と陰とその相克という順になっている。まぁそりゃね。しかし、物語としては、陰から陽、そして相克として披露される。そりゃね。
撮れない男たち
桑山(吉岡睦雄)は祥子に惚れていたのは言うまでもないとして、名目として彼らの心中した理由は、映画が撮れなくなったからだろう。何故撮れなくなったか。おそらく、同じ理由で栩谷は祥子を主演させなかったのだ。良くも悪くも対象を客体化できない。
ほんならそれだけで死ぬのか、という話だけど、私自身が忘れそうなのでメモしておくと、ここは逆説的なな関係があって、つまり桑山は道連れにされたに過ぎず、心中の主体は祥子だったという読み方をしたほうが素直なんだろうな。言ってることがめちゃくちゃだけど。
だのでまぁ、身も蓋もないが、ベタな三角関係ってやつがあるのはたしかで、伊関(柄本佑)はトリックスターだから目くらましになってるんだけど、本作は桑山と栩谷に目をやっておかないといけないんだろうな。まぁこれも感想としてはこれ以上立ち入りする必要がないだろうけど。
親友の死と愛する人の死と
その三角関係について、あるシーンで栩谷が桑山を「親友であった」と述べており、へぇという感じで、なるほどおよそ同年代で同じ監督の道を志す同士であったことが徐々にわかる、なるほど言われてみればという構造になってる。そして同じ女を愛してしまった、と。そういう流れの中にある。
桑山が祥子に惚れ込んでいるのは、劇中のカラオケのシーンでもっとも象徴的に表されていたが、煮え切った態度を見せなかった栩谷の心情が明確になるのは、すべてが終わったあとなんだよね、作中の展開としても、もちろん映画としても。
ここでようやく親友と最愛の人を同時に失った男の悲劇がようやく現出する、とでもいえばいいのか。まぁ作品が描くことというと、桑山はオマケ程度の存在ではあるんだけど。
ある欲望、それをそのまま表現しえない
2022年末に観た映画『光復』が『花腐し』から連想させられた。あの映画は監督(深川栄洋)がご家族(主演の宮澤美保)を抜擢し、ある不幸と再生のような経過を描いた。彼女の体当たりな演技、というかざっくり言ってしまえば、悲喜こもごもの交合のシーンが多かった。
映画『花腐し』のバックグラウンドとしてのピンク映画、あるいは近隣ジャンル(なのか?)のアニマルビデオ業界、いずれも裏側の事情はとんとわからないが、ある創作におけるミューズ(とされる)の存在の貴重さについては、あらゆる創作において重要なわけで、まぁ、そういう比較が『光復』とのあいだで、イメージされた。
繰り返すが、栩谷と桑山は、祥子を主演とした映画を完成させ得なかった。もっと単純にいえば、祥子と距離が近づきすぎたからとも言える。ミューズとの距離は慎重であるべきであって、さらにいうと、栩谷にとって彼女がミューズ足りえたかは怪しい。そこが桑山との違いでもある、のかもしれない。
一方で、伊関が『花腐し』を完成し得たという結果にも納得しやすい。伊関にとっては彼女はミューズのままだったのは明白だからだ。
雨と死となんか
冒頭の伊関の住むアパートへ向かう途中の雨、階段の途中で降っている。ここ、非常に劇的で、画面の半分だけハッキリと雨が降ってるんだよね。「予算がなかったのかな?」と苦言を呈している感想があって、ちょっと笑ってしまったんだけど(その可能性もあるんだろうけど)、異界入りしてるんだろうなとはなる。
クライマックスのメタ的な演出まで踏まえれば、伊関と遭遇後の展開はかなり現実的であるかは際どくて、だからなんだという話をするのも難しいだろうし、めんどくさいが、究極的には栩谷の独り相撲であったことは否めず、あらためて彼自身が死んでみたら、あの涙に繋がったんやなって。
最後に祥子についてだけ言っておくと、伊関の存在が栩谷を癒したというのはたしかなのだが、じゃあ祥子はなんだったのかということになってきて、いや、なんでもよかったんじゃね? という身も蓋もない結論になりそうだが、ここはひとつ、生きてなきゃ夢も見れないってことで。悲しい結末でしたね。
その他のことなど
- Netflixの『全裸監督』(未視聴)や『止められるか、俺たちを』(未見)などを思い出すけど、そういう流れのなかでの作品でもあるんだろうな。このへんの知識はとんとないし、なんか適当な読むべき文章があるなら知りたい。
- 目にした感想に「昔ってこんなだったんだぁ」みたいな若者の感想があり、メッチャ昔の出来事を描写していると明らかに勘違いしていると思われ、笑ってしまった。しかし逆に、メッチャ昔の出来事として捉えて正しいのかもしれない。
- 劇場でそばに座っていた人物の作品へのリアクションが激しくて気になってしまった。まぁしょうがないよな。
- 劇中歌について思うことがあって、わざわざパンフレットを取り寄せたんだが、宇崎竜童のかかわる楽曲ばかりなんだよな。で、思ったことについてはアテが外れた感じがしたので心に留めておく。パンフレットを読んで、なんか気づきがあったら追記するかも。
- 綾野剛と柄本佑がうんぬんというので、2人の交合があるのかと思ったらこれは勘違いしていた。『怒り』(2016)の綾野剛なんかを連想すると、こういう役柄は割と得意な側なんだろうなとは思った。別にエロとか関係なく、寡黙なひとというか。
Last modified: 2024-01-15