『アリスとテレスのまぼろし工場』を観る。岡田麿里監督・脚本の 2023 年最新作だ。ワーナー・ブラザースが配給するんだぁという感じで、同製作・配給は スタジオMAPPAだ。
監督のかかわる作品は TV シリーズでも幾つか見ているが、劇場作品はいわゆる秩父三部作の『空の青さを知る人よ』(空の青さ)だけ、あとは『さよならの朝に約束の花をかざろう』(さよ朝)は観ましたね。
本作、劇場で見たなかでは 1番に印象をまとめづらい作品だという感覚で、特に前半は退屈レベルまであった。かかるところ、以下の感想文も自分向けの言い訳のような内容ばかりなので、特におもしろくもない。
テーマ的に近年の他作品に似る部分は多々あって、そこはお互いさまというか、時勢というやつだと断ずるが、事前に列記しておくと、新海誠と同じようなモチーフの使い方(犠牲となる女神)とか、または、同じく新海誠監督他作品や『漂流団地』のような所謂、失われていく伝統、地域、生活のようなモチーフの扱いだ。
あるいは、これは漫画原作の実写作品だが『天間荘の三姉妹』(天間荘)のような構造、終いにはやはり実写作品(アニメ映画もある)だが『打ち上げ花火下から見るか横から見るか?』(打ち上げ花火)なども連想された。
直近の自分の鑑賞した作品だけでもこんな感じだ。
閉ざされた空間で世界が止まっている設定自体も珍しくないと思うが、この描写が絶妙にアリでリアルだなとは思わせるものの、細部がやややっこしく、妙に説明的な台詞も多くて「ついてけないな」とさせられるのも事実で、しかし背景設定がわかってくると「なるほどな」ともなる。しかし、究極的にはよくわからない。
序盤からずっと登場する主人公の履歴書のような書類がある。その生年欄が黒塗りになっているのは、演出上の意図として鑑賞者にとりあえず謎のままにさせておきたい、という目的と、主人公らは時間の経過を忘れたい、そこに意味はない、という点を含めたニュアンスを残していると思われる。
年代と時間経過の流れ(時間は経過しないのだが)は、精査できていないが、大雑把には以下の通りと思われる。
閉鎖空間に囚われた発端が 1990 年のようだ。これは作中の序盤で流れるらしい『神様が降りてくる夜』(川村かおり)の発売年が 1990 年である点、またサントラの 1曲目に収録されている劇伴のタイトルが「1990」である点からして、これはこれでいいでしょう。
閉鎖空間で経過した(してない)時間だが、これは 10 年程度のようで、終盤で製鉄所の職員がそんなことを口走っている。同時に、キーとなる人物:五実の成長だが、おそらくは 3~4 歳から数えて +10 で 14歳程度ということのようで、主人公らもどうやら 14 歳のほどらしい。つまるところ同じ年の子ということになる。
ちなみに、この辺の構造が徐々にあきらかになってくると TVシリーズの「あの花」に代表されるのだろうが、上記の「さよ朝」「空の青さ」などとの共通項がハッキリしてくるので、「うへぇー、これか」という不安と「またこの状況を通してきた!」という感動が入り混じって複雑な気分になる。
製鉄所の事故の話、似たような作品がモヤモヤする
製鉄所の事故、現実でも実は割と頻繁に起きているようで、場合によっては死者も出るようだが、たとえば廃炉にするほどの事故がどれくらい起きるのかは調べられなかった。要するに、本作について言えば、製鉄所の事故が起ころうと街全体がそれに囚われるほどの規模とも思えず、またそのような描写も直接はない。
終盤における主人公の祖父の解釈によれば「製鉄所はこの町のもっともよい時代の思い出(1990年前後ってコト?)を残してくれたのじゃないか」のように説明されたが、それ、完全に製鉄所そのもののエゴじゃんていうね。神主:佐上の説明だと鉄の神様の怒りだとでも言うらしいが、これで今更納得できまい。鑑賞者としての我々も。究極的にわからないのは、ここ。
実は最初に連想されたのは「天間荘」で、この作品は東日本大震災の発生で「天間」に閉ざされた魂のような状態のひとらの話ではあった。まぁ、このスケールの事故からの話であれば、わからなくもない。メタ的な話題となってしまうが、難しいところで、別にそこ(原発事故的なそれ)に重きを置きたくないから製鉄所を選んだってコトなんすかね?
しからば、「打ち上げ花火」くらいのファンタジー寄りの作品と見たほうが妥当なのだろうなと思いつつ画面を眺めていたが、だとしたらだいぶ酷な設定なんだよな。いや、どっちがどっちという話ではないが。結局、あの空間に必然性が感じられないから根の部分で引っかからない。というところのモヤモヤは残ったままだったですね。
成長はしていないのか、しているのか
時間は経過しないので登場人物らは成長していない、ようでいて、実は成長している、というネタは話のテーマそのものでもあったように感じるが、これもかなり際どい設定ではあるものの、その説明がないのは、やたらと登場人物の皆が自分たちの状況についてそれぞれの解釈を垂れようとする一方で、映像としてむしろ細部でしっかり描写されている。これは素晴らしかった。
もうすでに書いたように彼らは10年分年をとらないまま生きている。だから中学生のようにみえても、少なくとも生活の足となる自動車の運転は許されている。学校の勉強がどうなっているのかは覚えていないが(細かいシーンは出てきてなかったかなぁ)、本当なら高校、大学の内容を学んでいてもおかしくない。まぁこのへんは作品のリアリティの機微か。
ビックリするのが2人の主人公:正宗と睦実のキスシーンで、これ本作でいっちゃん気合の入っているシーンだと断言できるが、つまり濃い。これが上述のみんな「実は成長している」という部分の代表的な例で、突き詰めれば歪にすぎる(全体が歪だから気にしてもしゃーない)のだが、身体は小さくても心は大人だとハッキリ伝わってくる。いやらしい意味ではなくてね(含むだろうけど)。
アァ、エネルゲイアね
タイトルはあきらかに「アリストテレス」をもじっているが、意図はよくわからなかった。他の方の感想を眺めていたら、作中で父親との回想にマンガ雑誌が登場し、「哲学戦士」? だかが必殺技で「エネルゲイア」だか叫んでいることを思い出した。それだけだ。
つまるところ今作は、監督にとって一貫したテーマであるところをアリストテレスの「可能態」と「現実態」という概念に託している。(本当は成長している(かもしれない)、その可能性を携えたままの)私たち、そして同時に、一方で、幼く、子供の状態(を残している(だろう))私たちの相剋としての私たち、その成長とは何ぞやという問題だ。
清々しいかね。
一見して回答はシンプルで、子供の未来に託すという話ではあるのだが、その実、それが本当に単純なことなのかは現実を思うとそうでもない状況とは言えそう。実はここが本作の監督のプラスアルファである気もする。
この見出しにオチをつけるとすれば、エネルゲイアは言うまでもなくエネルギーの語源であるわけで、未来を志向する力をこそを求めているわけだ、まぼろし工場は。
その他の雑多な感想など
- モデルになった製鉄所、X を眺めていたらいくつか候補があるらしいけれど、結論から言うとそれらのミックスらしい(どこかのメディアで読んだ気がするがソースを失念)。
- メインの制作スタジオ以外も協力するもんではあるが、クレジットに登場するスタジオ数がエグイ量だなと思っていたらなかなか難航したようだ(映画「アリスとテレスのまぼろし工場」 監督、声優が舞台あいさつ|毎日新聞)。
- 実際、よくわからないシーンも多くて、だいぶ気の重たい瞬間もあったのだが、カーチェイスというギミックは映画にとって偉大な発明であることが明確にわかるのはよかった。運転手が子供、でも運転が上手いという点も説得力があって好みだ。
- 正宗の叔父の時宗の美里への気持ちというのも、なんかえらい気持ち悪く感じたのだが(個人差はあろう)、あれも閉鎖空間での10年なりの歳月を思うと重たい(余計気持ち悪くなるかもしれない)。
- 岡田麿里監督らしさというのは感じるけど、別に女性らしさを感じるかと言われると、それはよくわからんとしか言いようがないんだよね、個人的には。
Last modified: 2024-01-15