スタジオジブリ、宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか。』を観てきた。観てからだいぶ経つ。21時過ぎの上映の TOHO 日比谷 TCX のスクリーンはほぼ満席で、ほとんどがカップルのように見えたが、ちょいちょい、お一人様がいるような状況だった。まあ、そういう感じに見えたということだ。

この感想を書きながらいくつもの感想や批評めいた文章を読んだけど、気を付けたいなと思ったのは、メタ宮崎駿、メタジブリ的な語りの多いことで、そりゃ自由にやったらいいんだけど、それってやっぱり言うほど面白くないよなと、私としては、ね。

そもそも君らがどれだけ宮崎駿やスタジオ・ジブリに詳しいのかと。言い始めたらキリがなく、実際に詳しい人も山のように居るのだろう。また、彼やスタジオにリスペクトを持てとは言わないが、どうにもネット社会というか、今の世の中には、そこに在る存在やその歴史を手前勝手に料理して軽んじる傾向があるのではないか。気をつけたい。

というわけで、夢想のような感想を以下に残しておくけど、的を絞ってないパターンの文章のままで放出するので読みづらいだろう。

冒頭。また戦争ものか…、と思いきや、物語の舞台は疎開先の田舎の屋敷での悪夢であった。継母との確執めいた関係がテーマになるのかなと思いきや、いや、中盤ほどの状況ではあながち外れな予想でもなかったが、それ以上に奇妙な展開と内容で、どこにボーダーラインを引いていたか自覚はないが、それでも期待していたよりもよかったなという作品だった。

田舎の学校への初登校後、現地の子らとケンカして傷ついたシーン、最近の宮崎駿は靑たんこぶとか作らせないのか? と訝しがっていたら、流石にちゃんとした意図がありましたね、おみそれしました。

母の死、彼女の名は「ひみ」という名らしいが、炎に消えていく女の姿という意味では古今東西の作品を連想させられ、「えぇー、『火の鳥』みたいなことにはならんよな」と抱いた疑問は半分は正解で、半分は外れた。大当たりでなくてよかったけど。「ひみ」という名を漢字で如何に書くかはわからないが、「火」に関連しているという以上には象徴的な名ではあるなと思う。まぁ深入りはしない。

鳥の姿を借りたキャラクターに異界に誘われる展開は『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』を彷彿とさせられ、実際に本作の展開は夢であったというような解釈もできるだろうから、ますますドラえもんのそれと近い。「夢幻三剣士」も怪作というか、大枠でいうと失敗作だと思うが、こういう系統の作品はそうなるのが運命なのかね。

話は飛ぶが、終盤に出てきた執務室の画、宮崎駿のラフ風のタッチというか絵コンテそのまんまみたいな感じというか、映画「ナウシカ」の王蟲の幼虫の回想シーンを思い起こさせられる雰囲気だが、この画風を出してきた作品って他には幾つくらいあったっけな。あんまりないよね、多分。

眞人が託された世界は、あくまで大叔父の作り上げた世界だ、という点が、この物語の責任性のような部分をあくまでファンタジーに抑え込んだという点は評価しやすいかもしれない。「セカイ系」があえて取らなかった手法なのかもしれないが、大抵、お話というものはこれでいい。これくらいでいい。なんなら、この話も割とどうでもいい。

とは言うものの、彼に迫られる選択や大叔父の過去の選択、大叔父からの助言、終局までの諸々の展開を突き詰めれば、それは私たち、鑑賞者たちの世界を示唆しているには決まっており、このことが鑑賞者にとってどれくらい明らかなのか、そう意識する必要があるか否かは、どうでしょうね。つまり、タイトル回収ってことですけど。

皆さんのおっしゃるように、宮崎駿監督の過去作のセルフオマージュのようなところは多々見受けられたが、一方で、愚直にテーマを受け取るとすれば、それはたしかに漫画版『風の谷のナウシカ』のようでもあったが、それはそれとしてどうだ。監督の問題意識は当時から一貫しているのでは、とは言えようか(言い訳しておくと、メタ宮崎駿という話というよりは、あくまでそれぞれの作品とのテーマ的な関連性という意味で)。

ところで、アオサギである。現実に帰ったアオサキが只の鳥に戻るとも思えないが、まるっきり人間というワケでもなさそうで、あれ、彼はなんだったんだっけ。どうなったんだっけか? そもそもなんであんな気持ち悪いビジュアルだったんでしょうね、慣れると可愛いげもあるけども。

しかしである、男子版『千と千尋の神隠し』という評もチラホラ見た。が、これは雑過ぎるだろう。さまざまなエリアを旅しながら変化を受け入れる構造こそ似てはいるし、本作が「冒険活劇」であることは否定しないが、決定的に違うのは、主人公の「成長譚」ではないよな(『千と千尋の神隠し』がそうだと断定して言うけれど)。

眞人と千尋の決定的な差はそこに思える。別に眞人くん、彼の年齢なりに母との死別に苦しんで、新しい母を正面からは受け入れられていなかった点の他はむしろ、超人の域に達している身体能力(いつものこと)、意志力(いつものこと)である。つまり、安易に「千と千尋」を持ちだすのは難しい。少なくとも千尋はそうは描かれていなかったよな。

そういえば、煉獄住まいのキリコさんによって「眞人」という名は「死の匂いに溢れてる」のような指摘があった。これは誠にアレなご指摘というか種明かしが早いなというアレで、皆さんも彼の名を目にしたとき、「重たい」「やりすぎじゃね?」って思ったでしょ。私は思いました。

監督も原作のファンであるらしいところの「ゲド戦記」を引くまでもなく、監督自身も登場人物の名前を操作するのが大好きなのは、やはり漫画「ナウシカ」の時代から変わらないようで(これも別にメタ宮崎駿的な勘繰りではない)、身も蓋もないとはいえ、大叔父から世界を任される運命にあったことは、彼の名からして確定している。真の人がいるとすれば、そりゃ神だものな。

でもあれですね、お母さんが少女に時代にあの世界に誘われた理屈はよくわかっていなくて、そのへんは謎だ。当時からアオサギがいたとしても、彼が相手は人間だったら誰でもリクルートしていた、なんてワケでもなさそうだし。お母さんがあの世界を継ぐっちゅーことになっていたのか、ヒミは大叔父の世界にとってなんだったのか、どういう可能性だったのか、整合性とか面倒くさいし、わからんことだらけだけど。

お母さんといえば、継母の産屋のモチーフについてグダグダ解釈をしそうなひとを見かけたが、あれもモチーフってだけで充分だろうな。ひとめで趣味が悪いなとは思ったし、このような感じでお産をフューチャーするのかとも思ったが、なんか別にどうでもいいよな。彼女の顔芸はおもしろかったけど。

ちなみにあのシーン、眞人にとっては前門の新母、後門の元母ということで、お母さんバインドである。業が深い。これは実は手塚治虫も富野由悠季も実現していない業の深さなのではないか。

母屋について、趣味が悪いとはいったが、「石」であることは一貫していた。煉獄の石室、産屋の岩屋、なんかの意思の石、どれもこれも石だ。ダジャレかな。気になるのは「我を学ぶものは死す」という墓の門のメッセージで、これなんだろうね。

「我を学ぶものは死す」だが、インターネットは便利なもので、絵手紙作家:小池邦夫さんの師匠と親しんだ方の残された言葉らしい。もともと中国の古典にも似たような言葉があるとかないとか。まぁメッセージは「最終的には自分で道を切り開け」みたいなことのようだが、それは二の次として、あそこに誰が埋葬されているかなんだよね。

抽象的な想像で終わるけど、あそこには大叔父の悪意(だっけ?)が埋葬されていたのではないか、と僕は思う。仮に眞人が悪意のない後継者として選ばれ得たとして、大叔父はどうだったのか。ありていに言って、この世には無垢なおっさんなんて居らんので、大叔父は彼の純粋な世界を構築するにあたって、自身の悪意をどうにかする必要があった。それがあの墓なのです! 本当か?

そういえば煉獄にいる笑う胞子? が現実で人間になるというのは流石に説明しきれない気がするので、アレはキリコのファンタジーじゃないのかな。もしかの世界でそれが事実だとすれば世界の崩壊ないしは、背後の理屈からの覆しだもんな。

大叔父の世界が曲がりなりにも階層構造のような状態というのは正しかろう。これもベタだが。問題は、作品世界の現実との関係だが、まぁ答えはないね。君だけの新しい宇宙を作ろうというネタは、藤子・F・不二雄はドラえもんでも短編でも擦ったネタではあるが、この作品では塔のなかの謎空間である必要があったらしい。

あるいは、ざっくり言って、あの最上階の執務室から先のイメージは、どう見ても、何度でも言及してしまうが、漫画ナウシカの「庭」に連なる。大叔父のやってることは漫画ナウシカでいうところの旧人類の目的とかなり近いところがあって、なんだ、まるで揃っているデータは昔のままじゃないか。あきれたなぁ。みたいな意見もありうる。

そうじゃないだろう、つまり監督の根本的な問題意識は変わってないし、だけど、まだそれを解決してやろうという気概があるんだよ、解決しようがなくたってさ。お前らもそういう問題意識というか、気概をひとつくらい抱けと、そういうメッセージだったんじゃないの。

最後に。映像的には、煉獄のバルコニーのお手洗いから出てきて空を見上げたかっとが抜群に美しかったのと、最後のわちゃわちゃでインコがどさくさに紛れて一刀両断したシーンなんかがおもしろかった。

田舎の大きな屋敷を建もの探訪のように練り歩くシーンも個人的に好きだし、同じように謎の大広間の外廊下も美しかったね。

Comments are closed.

Close Search Window