そろそろ TOHO の劇場ですら上映は終了するのではないだろうかという気がしており、いい加減に《天気の子》の感想を書き残そうと思い立つ。鑑賞した直後の勢いにまかせた感想もいいが、時間が経っても残されている記憶と印象で書く感想にもよさはあるはずだ。
カオスの東京、汚い大人たち。
これは最初から感じていたことだが、東京は汚い。これを美麗なアニメーションで美しく再現したことに、おもしろ味がある。狭い道路を行き交う車、うるさい踏切、いつ倒れてもおかしくなさそうな古ぼけたビル、寝泊りできるマンガ喫茶の薄暗い個室、風俗の宣伝広告車、歌舞伎町などの歓楽街と裏通り、ホテル、汚い東京をとことん描く。インタビューや記事にも明言されていたが、これは今までとは少し視線が違う。《君の名は。》で三葉にとってキラキラと光っていた東京ではなく、あくまで、その裏側だ。
汚さは嫌悪の対象のみであるかというと、そうでもないだろう。家出した帆高が都会を目指したこと自体がそうであるが、なんでも飲み込みかねないカオスというのは、ある意味で救いだし、実際にこの汚さのなかで帆高は生活を構築しはじめる。まともな家庭の崩壊した陽菜が生き抜こうとしたのも、この汚さを生み出すカオスに頼ってのことだ。
そういう現実、あるいは夢を見せることができるのが東京であって、本作についていえば、強く汚さ、古さがエネルギーを持っている。その魅力とは、なかなか自覚しづらいところがあるように思うがどうだろうか。あるいは汚さのなかに身を置いたとき、汚さを客観的に見ることは非常に難しいのではないか。汚さに身をゆだねる楽しさもあるのではないか。
汚さといえば大人であって、本作の大人というのは、アテにならない。青春やジュブナイル作品などにおいて、アテにならない大人というのは珍しくもないが、チンピラおよび警察官、いわば社会の暴力の陰と陽にたつ人間らがどちらもクソなのが本作で、これは「大人ではない、子供のままでもいられない」という帆高と陽菜らの立場の不安定さをも表しているのではないか。事実、序盤の彼らは陰の暴力の世界に引っ張られつつあった。
何方にも与しない須賀圭介の助力、帆高の機転と陽菜の天恵によって、仮初ながらも安定した生活のバランスを取り戻しつつあったが、今度は陽の暴力がそれを許さない。曰く、家出少年、拳銃の所持。曰く、年齢詐称、未成年者保護などである。もちろん、警察はよいことをしている前提に立って少年らを社会のレールに嵌めこもうとするワケだが、そんなものは望んではいないのである。
天災、リセットされる東京。
人間の事情に構いなく、気まぐれに状況を操作するのが天である、というような発想は古今東西、新旧に関わらずオーソドックスだが、本作は陽菜自身が天の采配となってしまうのがキモであって、彼女の器としての限界は、少年らの抵抗のピークに一致してしまう。かくて天気の子は、彼らを取り巻く環境、葛藤をことごとく洗い流すのであった。
考証記事をいくつか見たが、山手線の東側ほぼ半分は沈んだらしい。上野、東京、品川はなく、千代田区は半壊模様か。新宿駅はほぼ無事らしいが、渋谷駅近辺のエリアは水浸の影響を大きく受けるだろうように思える。都外に目を伸ばすと、神奈川の川崎、横浜はおろか、埼玉は大宮方面まで水没しかねず、千葉は利根川水系がヤバかろう。
東京という、とても狭い世界ではあるが、このカオスの世界をリセットしたことはいかにも爽快ではないか。本当にそうか? 不意とはいえ、東京の半分を洗い流してしまうという愚行、快挙、エネルギーをどう受け止める。彼らのかかえる問題の解決に大人は役に立たなかった。その帰結がこの状況だと思えば、しとしとと降り続ける長雨というのは、何なんだろうな。
少年に負い目がある男。
少年らでもなく、大人でもない、本作で新海監督の立場に近いらしい人物、須賀圭介であるが、こいつぁ実は主役なんじゃないかという疑いが強い。 須賀の行動や願いを媒介しないと物語がうまく進展しないことを思うと、《天空の城ラピュタ》のドーラやムスカの背負った役割に近いとも言える。 彼に焦点をあてた感想をひとつも読めておらず、やや不思議だ。
というのも、陽菜を犠牲にすることで大雨で沈まず済んだ東京を象徴しているのが須賀圭介にほかならず、逆に同時に、これは少年を捨てようとした須賀自身の未練が狭間にあり、そして最終的には少年の希望を許す、まだ選択肢のある帆高に託すことで、彼自身のあきらめが擬似的に克服される。
須賀のあきらめというのも絶妙なところで、それは別に若かった頃の夢などではなく、亡妻および離れ離れになった娘と過ごせるはずだった当たり前の生活を失ったという、取り戻しようのなく自力で解決のしようのない悔恨を抱き続けた点にある。
1人の命で大勢の日常が救えるのなら、といった大人びた欺瞞を盾にしたまま酩酊し、目が覚めたら半地下の自宅から覗ける窓には雨水が押し寄せている。失った家族の思い出が詰まったままになっているリビングの非現実感と、一夜の大雨によってできた水溜まりの非現実感は、不用意に窓が解き放たれたことによって一体となって、結末で東京が水没する前に、まずは彼の思い出の空間が水没することになった。この構図は如何にも見事で、本作のピークはここにあるとも思っている。小栗旬の演技がなによりいい。この感想を残したかった。
補遺
不意にラピュタを持ちだした比較をしてしまったのが悔しい。個人的に、ラピュタにはパズーの意志というのはほとんど無いと思っており、そこが苦手なポイントなのだが、翻って本作はどうか。陽菜の決意に帆高はどれくらい影響を与えたか。失われた楽園、あるいは楽園を失うことの決意という局面で、帆高とパズーが果たした役割にどれくらい印象の違いがあるかなど、おもしろいのではないか。
とりあえず、後で読もうと思って溜め込んでいて、今回読んだインタビューやブロガーの感想などのうち参考になったものを以下にまとめておいた。新聞社などの有料記事は省いている。順不同です。
「疑似家族」というキーワードが《万引き家族》への言及とともに紹介されている。あぁそう言われればそうだねという。
上のインタビューの後編。上映直後にセカイ系で賑わった反応あたりへの言及は一応押さえておきたい。個人的には興味はない。以下は引用。
コアなファンに向けて美少女ゲーム的な文脈をどうつくるかとか、そういうことは全く考えていないです。結果的にそういう文脈でも楽しめるものになったのなら嬉しい
僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。
感想では触れなかったが、気になる視点ではある。銃の所持については結論めいたところを書いてほしかった。
上記と似た視点だが、こちらは逃走にのみ注目している。おもしろい。
この記事はよくできていると感じていて、いろいろと気になる点をまとめてくれている。 この記事では須賀に焦点をあてた内容も多い。参考になる。
過去の作品を通した監督評としてまとまっている。
ちゃんとしたメディアの記事だなぁという。他のインタビュー記事で言及されていたが「貧困」というポイントをしっかり取り上げている記事や感想というのはあまりないようで、そういう意味で貴重だ。
伝奇的なアプローチもできるんだが、あまり試みてる評は少ないように思う。まぁ、そこまで真剣に探していないけども。これは、メディアがそれをやったということで、まぁ。
英題は少し凝ってるなというか、ネタバレ気味やなというか、ダブルミーニング上手いなという感じだったねぇ。触れようと思ったけど、以下のブログ記事が大体言いたいことを言ってくれていた。以下は冒頭部分の引用。
「英単語のWeatherには動詞として「(嵐や困難を)乗り越える」という意味があります。つまり Weathering With You とは、「貴方とともに困難を乗り越える」といった意味になります。」
見出しがすべてといったところだが、メモ。
煮え切らない感想だけども、よい。
水没問題でググると本日現在でトップに表示される記事。丁寧ですね、ありがとうございました。
小栗旬の発信を見てみたくて読んだ記事。参考まで。
追記:2020.1.8
1 月 3 日の朝日新聞に新海誠監督の長インタビューが掲載されていた。《天気の子》のラストについては、ほぼ解説的な解釈(解説だ)が披露されているので興味深くはある。また、以下の引用の箇所はなかなか面白い。
他者のことを徹底的に想像するというのは、愛に結びつくと思うんですよね。他者のことを想像すればするほど、世の中には愛が増えるはずだ、とは、僕は自分の職業的にも思っています。
https://digital.asahi.com/articles/ASMDR559LMDRUCVL02B.html
Last modified: 2020-01-08