いやはや、こんな話だとは露ほども知らず。溝口健二の『山椒大夫』を観る。配信においては、AmazonはPrime VideoのKADOKAWAチャネルにて視聴するのが最短と思われる。いつか以来かのスコセッシおすすめ外国映画マラソン、年内に完走したくなってきた。
もともとは近世以前に各地にあった説話らしく、具体的には青森の「お岩木様一代記」の主人公であるらしい安寿の物語が、京都の丹後に伝わる「山荘大夫」物語として形成されていったようなことらしい。一応、森鴎外の作品『山椒大夫』が現代人には親しみやすい、ということになるんだろうか。あいにく、読んだことがなく、感触のほどはわからない。兄弟の関係や、安寿の最後その他には、バリエーションがありそうだが、詳しくは見ていかない。というか、この2点に関しては映画のアレンジのようだが。
もともと「安寿と厨子王」の説話(上述の説話の別名またはバリエーション)ということだったが、映画は主人公を厨子王とし、その家族、もとい父親は奥州の役人だったらしく、それが農民の願いをうけいれた咎(?)で筑紫に左遷される。家族はこれを追おうとしたが、新潟で拐かしにあい、兄妹は丹後へ、母は佐渡へ送られた。同じことの繰り返しになるが、ジャパンワイドな物語である。なるほど安寿さんは確かに東北日本の伝承の人物で、そこに勤めていたという父は九州に行くことになり、物語の中心は京都府の丹後となり、母との別れは新潟という地、しかも母は離島送りということで、北から南、離れ小島まで、地理的な広さが意識させられる点は気になった。あんまり類例も無さそうな?
一方で「山椒大夫」とは、映画においては荘園主だそうだが、世界百科事典に拠ると「この語り物はその〈さんじょ〉に住む遊芸の徒,説経師によって語られ」とあるように、語りの主体が「さんじょの太夫」だったことから、その名前となったらしい。また、言うまでもないようだが、作品には虐げられて使役させられた人たちの望みなどが託されているということだ。冒頭の父の経緯もそうだし、厨子王ら家族の落とされた身分、彼が解放しようとした人びとについても同じラインで考えられるということだ。
実際のところ、映画では山椒大夫の治めるエリアはゲートで一応は外界と遮断されている演出がなされていた。それが平安時代の当時にどれくらいあり得たのかも知らんが(なかなか無いような気がするが谷合の閉鎖地なら不可能でもないか? いや…)、厨子王と安寿は、あるタイミングで脱出を図る。というか、実際には安寿は囮となって、逗子王だけが逃げ出す。
話の運びとしては、省略も多いのだろう、根本的な物語の強さは別にしても微妙としか言いようがない面がある。たとえば、父の教えを大きく受けていたのは厨子王であるし、観音像を託されたのも彼であったが、成年しても慈悲の心を腐らせずに維持していたのは安寿であった。これはおそらく、もとの話に引っ張られて解決できていないポイントだろう。そして、この彼女のラストはあまりにも潔い。あまりにも儚いので、ボーっと眺めていたら危うく見逃すところであった。入水のポイントとなっているロケーションと構図は見事で、これが溝口健二の真骨頂ではと思うが、どうでしょうか。2作品しか見てないけど…。
なんやかんやで映画は終盤へ。ロードムービーとまでは言えないだろけど、貴族に復帰した厨子王は、父を参りに筑紫に赴き、最後には佐渡に渡って母を探しにいく。後者はクライマックスにあたるが、砂浜から背後に広がる海をバックにして、やはりカメラが絶妙で見入ってしまうね。
成年した厨子王を演じた花柳喜章、あんまり舌が回っていないなぁという印象を受けたが(録音技術によるものだろうか)、絶妙な情けなさ、覚悟を決めたあとの表情、クライマックスで母に向ける情感の子供らしさなどは流石であって、どういう人なのかなと思ったら、こちらは新派という歌舞伎から分派した明治の演劇の俳優らしい。もともと、花柳というと日本舞踊の流派のひとつらしいので、その辺の筋なんだろうか。とはいえ、彼は養子として迎え入れられたらしく、出自は記録としては不明、とのことだ。いろいろあるんだろうけど。
ちなみに、源流の説話は、この映画の十年後の1963年に東映がアニメ作品(『安寿と厨子王丸』)にしている。見たことはないが、そのような映像があるイメージはある。日本、地域の伝承のような物語が、商業的なコンテンツとして採用されたのって、この年代くらいが最後なのかねと思わなくもない。反証となる例などはいくらかありそうだけど、パッと思いつかないね。マンガならいくらでもありそうだけど、そう捉えると、マンガの果たす役割に別の面が見えてくる気もする。
Last modified: 2025-06-16