『国宝』を観てきた。ズルいタイトルだと思う。

国宝という名のつくコンテンツに関連する作品を考えたとき、これと同じ名前は付けられないやんな…。

ということで、ものの1年で急造の大阪弁に染まっていったキクオの波乱万丈な歌舞伎俳優人生を前半はじっくり、中盤はねっとり、後半は駆け足で描いたのが本作だ。もともと前後編ある原作を3時間に収める難しい仕事を脚本の奥寺佐渡子が成し遂げた。この方、細田守作品でも多く脚本してるんだよね、予告で彼の新作が流れていて、へぇと思った。余談だ。

このタイトルについて考えれば、本作はマンギクからキクオへのバトン渡しがテーマと受け取ることもできそうだ。この要素は本映画においても、もちろん映像として語られているが、本映画はどちらかと迷うまでもなく、花井家ひいては東一郎と半弥の物語としてフォーカスされて描かれている。このあたりは、後半のスピーディーさも考えると、ちょっとだけ違和感、ないしは物足りなさが残った。

ところで、実際の歌舞伎そのものを含め、歌舞伎を題材にした本作がこれほどの注目を集めている。単純な興行的な数を数えたとき、おそらく過去最高に集客しているコンテンツと言っても過言ではないと思うんだよなぁ、実際のところは知らんけども…。とは言っても、これは称賛ではなく、劇場映画というコンテンツの基礎体力の強さに慄くことはもちろん、この相乗効果になんとも言えない迫力があると、そう感じた次第だ。

あるいは、Wikipedia の項目を眺めていると、市川團十郎(私としては海老蔵として知っている)がブログで好意的な発信をしているらしいので野次馬的に眺めにいくと、たしかにそのようだ。同じく、アメブロをやっている片岡孝太郎(不勉強にて知らぬ方でした)も何かと話題にしている。他の方の反応はしらないが、本場からの反応があるのは、よいですね。好評にせよ、そうでないにせよだ。

そういえば私は、吉田修一の小説はまるで読んだことはない。が、鑑賞した映画『怒り』と『湖の女たち』は、いずれもまとまりを欠いた作品としか思えなかった故に本映画もどうかなぁと訝しんでいた。

が、これはまったく杞憂だった。脚本が上手かったこともあるだろうけど。例に挙げた2作、いずれもサブテーマのような要素が浮いていたように考えている。原作は知らないが、少なくとも、映画ではそれがノイズみたいになっている。本映画の原作では、概ね、そういった違和感が小さい。歌舞伎界の業のようなもの(ここでは世襲制と呼ばれるソレ)を作者はもちろんテーマにはしていただろうが、本作ではそれが全体のなかにフィットしたか、やはり脚本がうまくそれを昇華したのだろうと理解している。

原作を読んでみたい気持ちが高まる。

役者について触れると、森七菜と高畑充希の顔立ち、さすがに丸っきり似ているとは思わないが、系統としては近いと思うんだよね。私はこれはヒントだと思う。キクオが悪魔のような微笑とともに、決意を決めたと自らとアキコに囁くのは、どう考えてもその血を求め、取り込むことを決め込んでまで歌舞伎(芸)に身を投じることであって、単なる彼女の伝手の利用には留まらないはずだ。聞こえは良いようだけれどもだ。実際、本映画では彼の女遊びは最小限だったように思われ(ややこしいがフジコマこそ例外だろう)、そもそもハルエに一途だったわけであって。

そのハルエの心情の読み解きはしないけれど、少なくともフジコマとアキコの究極的には人選に誤りはなく、キクオは大成したわけであるからして、フジコマの娘アヤノもちゃんとした人間に育ったようだし、アキコも国宝となったキクオに寄り添い続けていたさまが描写されていた。アキコの父がどこの誰だったか忘れた(知らない)が、結果的に家出した娘の勝ちです。本当にありがとうございました。

そういえば、寄せているのもかもしれないが、老け顔メイクの横浜流星、父役の渡辺謙に似ていたな。

家族ということで言えば、私はね、サチコを務めた寺島しのぶの代役を立てるとしたら、誰がいいのか、それが浮かばない。目にした情報によると、サチコも元は歌舞伎の家系の娘だそうじゃないか。ということは…、アキコと似たような立場だ。墓参りのシーンで、夫を責め、キクオを責め、申し訳程度にシュンボウを責めてみせた妻であり母であるが、おめぇこそ図々しいなぁと言わざるを得ない。その内面の複雑さは図りがたいが、この太い根性を体現できる俳優は他にいるとすれば、誰だろうね。

その諍いの焦点ともなった半二郎の襲名だが、あのときのキクオの女形が作中でもっとも可愛らしかったな? というのも、女形としても役柄としても、キクオ本人としての本性を半分、公に晒すことができるまたとない機会であり、また吉沢亮本人の年齢層的にももっとも近い頃なんじゃないかな(具体的な演目の想定する女の年齢はしらんけど)。だからこそ、挨拶しているときの本当に晴れやかそうな笑顔、事件後に狼狽した美しい顔、どちらもよかった。

それにしてもな、なーにが白虎だと、こればっかりは、サチコに同意しますね。①家は絶えさせられない、②シュンボウはいない、③キクオはポテンシャル込みで実力は十分ある、という条件が揃ったので、半二郎をキクオに託すという選択肢しかない。これはわかる。しかしアンタ、さんざん体罰したんだからさ、なんとか血を飲み込むくらいのことをしたらよかったんじゃないのと。振り返ると、二代目? 半二郎は、渡辺謙の迫力だけでなんとか威厳があった風だが、特に活躍してないんだよな…。なんだおめぇ。

舞台。歴史上のことは確認しないが、少なくとも60~70年代までは上方でも歌舞伎場があったんですかね。大阪の花井家の本拠地っぽいところは1回だけ映ったかな。小さかった。京都の舞台のほうがもう少し大きかったようだ。80年代以降の舞台が、あれは東京なのかどこなのかよくわからなかったが、その頃にはもう上方では常設の舞台は廃れていっていたみたいな意見は目にした。ま、作品がどれだけ史実をなぞっているかも別の話だけど。

二代目半二郎がこさえた借金ってのも、思うには斜陽になっていった上方落語界をどうにかせんかと試行錯誤した上のことだったんだろうけど、それにしてもあの借金は結局どうなったんだってばよ。さすがに半弥が引き取ったと思いたいが、原作を読めばわかるんだろうか。

そういえばバックについている企業の竹野君(三浦貴大)、よかったね。ポッと出のキャラクターかと思ったら最後まで大活躍じゃないですか。ちゃんと出世できているのか不安になっちゃうよ。まぁ、最後は舞台裏まで仕事しにきてたから信頼は得ているんだろうけど。東一郎と少しずつ距離を縮めていくところ、好きです。救いにもきてくれるし。「ようやくお前を認める気になったんだろ」だっけ?

ダラダラと書いた。最後に少しだけ。

劇伴はどうかと思った。これは他にも苦言のような感想を残している方も多かった。何かというと、特にクライマックスの国宝による演目だが、和楽器の伴奏が謎の音楽(劇伴)で上塗りされている。この意図がまるでわからないまま、音がゴッチャになっているなぁなどと思いながら観ていた。うーむ?考えられるとすれば、演目の音楽だけだとあのあとへの繋ぎとして物足りなかったというか、そぐわなかったということはありそう。どうなんでしょうね。

一方で、音の効果はよかったな。印象的なのは、マンギクとキクオの2回の遭遇で響く低音、ベタだけど。もうひとつは、曾根崎心中でのキセルで縁側を叩く音。クレジットをみると、音響に白取貢、音響効果に北田雅也がクレジットされており、普段はここまで気にしないのだが、この二方のどちらか、もしくは両方のお仕事なんでしょうかね(もちろんこの2人だけでもない)。

ちょっとしたジョークだが、最後の国宝が舞台の天井を大きく仰いだとき、歴代ジェダイの騎士たちみたいに、花井家の亡霊とかがボウーッと浮かんで来たら面白いなぁなどと思った。実際にそんな演出がなされたら絶対に笑うけれど。

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