『天国と地獄』(1963)を観る。スコセッシおすすめ外国映画マラソンを走っている。
古い映画にはそれなりに慣れているつもりだったが、今作はちょっと間合いが合わないというか、展開がツラくて何度も区切って(10回以上も区切ったか)鑑賞を終えたので、まっとうな映画体験にはならなかった気がする。要するに、最後のシーンこそが本作の骨頂なのかという認識に至り、山崎努の狂ったような演技がすごいなぁとなりました。
『生きる』が1952年の映画で、本作は1963年の映画ということで黒澤明の現代劇としては本作のほうが制作年代は現在に近い。この2作の間の10年ほどは思っているよりも大きいというか、舞台設定がまるで異なるとはいえ、社会はかなり豊かになっているなという状況が描かれてはいる。その光と影こそがテーマでもあるようだが。
最後まで、何故にタイトルが「天国と地獄」なのかわからなかった。要するには(クライマックスで語られるままだが)、犯人である竹内の暮らす部屋からの眺めには、天国のように君臨する権藤の家が聳え立っており、鬱屈した生活をしながらそれを眺めるうちに、憎悪の対象になっていった。竹内の生きている人生は、地獄そのもののようだったとのことだ。ははぁ。
作品のプロットは大きくは5つにできると思う。権藤の政治劇、誘拐されてからの権藤家、身代金の引き渡し、捜査開始、クライマックス(最後のシーンまで)という感じだ。最初の2つに1時間以上かけ、ずーっと権藤の家の中でグダグダやっている。これが個人的にはキツかった。権藤の戦いや苦悩が(それこそ天国での出来事なので)、運転手の息子が人質に取られたという絶妙さも加わり、なんともかんともという具体に身に沁みてこない。
このような振り返りができるのも、あくまで犯人側の視点としてではあるが、権藤が天国側にいるとわかっているからで、うーん、そうさなぁ……。なんだかんだと権藤が身代金の引き渡しに応じて役割を果たすと、警察らは彼にシンパシーを強め、世論もそれに応じて盛り上がる、という展開はそれなりに興味深かった。そう思うと、竹内がなぜ権藤は子供を見捨てないと断定していたのか、それもよくわからないが、彼(権藤)が天国の住人だったから(そんなことはしない、ということ)だろうか?
竹内について考えれば、唯一の肉親らしい母が死んだらしいが、それはそれとして、お前さん研修医やろから実直に手に職をつけて就職していれば数年後には天国とまでは言わずとも方向性としてはそっちの住人になるんじゃないの? という気もするが、それこそが彼の孕んだ、あるいは巻き込まれた狂気なのであって、このような犯行に繋がったのだろう、という話の付け方なのだろうね。
彼らの関係をもう少し詳らかに見ていくと、権藤は50代前後だろう。もう少し若い可能性も考えたが、彼のもとで十年以上働いてきたという河西がおり、彼が20代ということもなさそうで、これが若くても30代中盤くらいとして、権藤の年齢を推定した。そして、研修医の竹内は、当時の制度は知らないけれど、20代後半くらいが妥当なところだろうか。
あまり厳密には計算しないが、この映画の作品内の時間が公開年の1963年としたら、いずれの人物も所謂日中戦争か太平洋戦争の戦前、戦中に生まれていることになる。権藤は16歳から工場で働いた叩き上げだというが、年齢通りであれば従軍経験もありそうだ。なんなら河西も微妙なのではないか。竹内はおそらく小学生になるかくらいと雑に計算できるので『火垂るの墓』なんかが連想される年齢だったのだろうか。
このように想像すると、従軍の経験をどう捉えるかは別としても、幼少から青年期までの生活、家庭環境などなどは権藤よりも竹内のほうがよっぽど地獄な時代を過ごしていた可能性は俄然と高い気がしてきた。クライマックスでは黄金町のヘロイン窟に出入りする竹内が描かれていたが、彼にとってはそれも身近な世界だったのかもしれない。
どうでしょうね。
Last modified: 2025-09-08