月は昇っているか?
新聞を読んでいたら、「空の発見」という展覧会の情報が流れてきた。松濤美術館だという。渋谷のハイソなエリアというイメージがあるが、ざっくり道玄坂の上り切ったあたりだと気づく。渋谷の地理に弱い。もう20年近く前に1度だけ行ったことがあり、まだ若造だったので館内の雰囲気に半分のまれていたような気もする。あらためて入ってみると、良いところだった。
日本の絵画史において、空を対象(説明だと「現実的に」)として捉えて描くことは近代までなかったというテーマ立てとなっており、それに基づいて作品が集められている。展示品は97点(前・後期の入れ替え込み)ということであった。人の入りはほどほどで、美術鑑賞が好きな人がきているという印象。年齢層もイイ塩梅に散らばっていた。さすが渋谷や。
1章 日本美術に空はあったのか?—青空の輸入
日本の絵画に空は…、ありませんでしたー、ということで、「金雲」だとか「すやり霞」だとか、あくまで余白の間を埋めたり、隠すことに意味を生み出すときのツールのひとつとして、雲やそれに類するものが用いられたという例が示される。
例外的なのが、藤田錦江の『花鳥図』だそうで、花の背後に、たしかに藍色かしらぬが青い空模様らしきものが描かれている。背景に過ぎないかもしれないが、前述の2つの要素とはまったく意味合いが異なるのは、素人が見てもわかる。
その後、司馬江漢が西洋画に学んで空を積極的に描き、「泥絵」などにも影響を与えたらしいが、まだそんなに価値としては広がらなかったらしい。とはいえ、このへんから青色の塗料が普及し始めたらしく、江戸後期かしらぬが、言わずと知れた北斎やらのあたりでは空を青く描くことは一般的にはなったようだ。
司馬江漢の影響というか、泥絵という大衆絵画(大抵は作者未詳らしい)が3点あった。鏡絵を意識していたとかで左右反転しているとのことだが、説明を読んでもよくわからない。眼鏡絵とは別物なのか? それはそれとして、いわゆる肉筆浮世絵というジャンルらしく、紙に顔料で直接描いているらしい。
こんなによい発色で残ってるんだから版画浮世絵よりも、品質を保ちやすいのかな? たまたまかな? 地方者の観光商品であったとのこと、大名屋敷なんかを描くことも多いらしく、鳥観図と遠近法のどっちもどりの構図みたいな印象。あんまり見たことがない気がしたの、おもしろかった。なんなら1番インパクトがあったかもしれない。
あるいは、国芳の『東都富士見三十六景 昌平坂の遠景』も好かった。見たことあったかな? 国芳というと奇想だとかいうキャッチフレーズが有名だけど、やっぱりふつうに上手いんだよな。北斎とは別のニュアンスで、人物がコミカルでリアリティがある。
そういえば、司馬江漢、今年は『雪舟伝説』でも見たことに気づく。あのときは、異質さが際立っていたが、なるほど理屈を変えてみると、その理由もわかり、魅力が増すというものだ。
2章 開いた窓から空を見る―西洋美術における空の表現
ルネサンスの偉いひとが言いました。絵画は目の前の画面を切り取って云々。原理的にまるっきりそのように描けるわけではない(らしい)が、大まかには、そういうことだ。ところで、そもそも世界的に、青の塗料の登場や普及までに時間がかかったのは、なんとなく雑学としてぼんやり知っているが、つまり、そもそも青がないから空を対象として描けなかったのでは? という気もする。
これは、どうなんだろうかね。ターナーの銅版画(ざっくりモノクロ)なんかはあきらかに空を対象としてるけど、それって青い空を描ける状況が生まれて以降だろうし、日本絵画にせよ、世界中のいかなる絵画にせよ、青の塗料がない限りは、空は描かれなかったんじゃないの? という気もしないではないが、そのへんはテーマから外れるんであろうし、特に言及はなかった気がする。
展示のなかでは、ウジェーヌ・ブーダン『ノルマンディーの風景』、モネに影響を与えたということで、見たことあるかないかわからない画家だったが、プレ印象派とでもいうか、カミーユ・ピサロなんかと近いなと思ったら、ほとんど同年代であるね。
3章 近代日本にはさまざまな空が広がる
高橋由一『不忍池図』があり、見たことあったかな? という具合だが、解説には、高橋由一の空はたしかに西洋絵画的ではあるが、そもそも彼は江戸の画家(西洋画家)であり、その本質は浮世絵などの文脈から抜けていないという熱い説明があった。うーん? と思わなくもないが、図録でもその説明が重厚にされており、それはそれなりの理由があるので、なるほどと頷くのみに終わる。
武内鶴之助の『アラシの夕』や「雲」と題されたシリーズなどは最高で、黒田清輝の海岸と空は「なんかどうせ鎌倉あたりの海なんだろ? ケッ」(予備知識なし)と喧嘩腰に眺めていたらその通りだったので、笑いましたよね。山田睦三郎『樹間風景』は、映画のカットのようで、いろんな作品の影響(あれやあれ)はあるんだろうけれど、カッコよくて好き。中村岳陵『残照』は、ところどころ枝が信じられないような具合で描かれているのだが、これ画材と技法的には日本絵画なんですよな。よくわからんけど。
岸田劉生と萬鉄五郎は、最近はなにかと目にする機会が多い。
藤田鶴夫『早春』の足元の毛むくじゃらは、狐でいいのかね。うり坊かなと思っちゃった。藤田鶴夫『煩悩』は、次に書いた高橋由一の作品もそうだったけど、図録では滲んでみえてしまっていたので、ちょっと残念ではあった。渡辺武『祈り』は、このなかでは最もダリっぽいのかな。この時期の日本の画家のシュールレアリスムをこんなにちゃんと見たことなかったけど、新鮮ですな。
シュールレアリスムと空という観点からは解説もなかったような気がするが(曖昧)、いわゆるフロイト的な解釈と絡むと、なんかあんまりいい話ではなさそうだなぁ。
曽宮一念の『毛無連峯』という作品、視力を失った画家の最後の(油彩?)作品ということらしいが、本作の空と雲がすごい。心に残る。
4章 宇宙への意識、夜空を見上げる
高橋由一『中洲月夜の図』は、文句なしにキレイで、ずーっと眺めてるひとがいたが、わかる。でも作品もスペースも小さいから、半ば占拠になってたやで。また、図録では贅沢にも2ページ見開きで載っているが、言うまでもなく中央で切れるのでもったいない。こんなになるんだったら、美術書の作法や常識は知らないが、1ページ縦で配置するなどもアイデアだとは思うが、悩ましい。苦渋の決断だったろうけど。
柄澤齊の作品も、どこかで何度か見たことある気がするけれど、空というテーマと結びつけると、なるほどなという気もする。そこをまだ出ないけど。
5章 カタストロフィーと空の発見
池田遙邨『災禍の跡』は、普段は倉敷にあるのかな。見られた幸運に感謝したい。関東大震災ということで京都から取材写生に出掛け、現地の被害者から怒られ、画壇でも怒られて無視される結末になったらしい。が、彼がこの作品に残した、描いた悲惨さはまさしく現在まで受け継がれている。それをどう考えるべきかは別問題だが、作家にポジティブな問題意識があったことも確かだろう。ちなみに、Wikipediaによると、池田遙邨はもともと日本画の専攻で、あくまでも本作は西洋画風らしい。
佐田勝『廃墟』も見られてよかったなぁ。池袋の学校、その屋上なんじゃないかという解説があったような気がするが、屋上というのが仮に最上階跡だとしても、こんなに柱が露出するかねぇ。そうなのであれば、どれだけ爆撃がすごかったかという話になる。いやはや。しかし、滅びの美学ってほど高尚なものではないが、ふわりとぼんやりとした柱の輪郭とその背後というか、バックに拡がる青空が気持ちいい。
戦禍で空を見上げるというのは、おそらく人間のサガみたいなところはあるんだろう。戦中を若く過ごした作家なども空について言及していることがある、そういうイメージがある。
6章 私たちはこの空間に何を見るのか?
途端に現代アートである。よい。
阪本トクロウ『ディスカバー』は図録の表紙にも採用されている。いい絵です。ところで、阪本トクロウの名前をどこかで見たことがあると思ったら、いつか練馬でやっていた《電柱展》の作品であった。《電柱展》も時代を追っていたし、序盤の早いあたりから似たようなテーマ付けだなとは思っていたので、不思議はないが、むしろ共通する視点があるのは、当然と言えばそうで、これは面白い。
AKI INOMATA『あの日の空を覚えている 1926年4月20日、1929年12月25日、1932年12月12日』はよくわからん。もともと今回、3章に展示されていた阿部正直の雲の記録写真をベースにした作品らしい。3Dプリンティングを介して液中に再現、出力した雲であって、それは映像として展示されていた、なんかゆらゆら揺れて、もこもこしていた。
で、やはり冒頭の展示にあった眼鏡絵ではないだろうが、スコープで立体的? にみえるようなフィルムのような出力された展示もあり、眺めてみて、よくわからんけど、タイトルのように記録を掘り起こして想起できるという状況があるのはわかった。おもしろい。図録では、なんかオシャレで人物モデルも採用された商品宣材? 広告アートみたいな写真になっていた。なるほどな。
その他、写真の展示が2点あって、どちらもよかった。
図録はいいぞ。今回は表紙が特にいい。
前半部分まではそれなりに読んだ。池大雅のスケッチに触れられている個所があり、今年の春ごろに見たよなぁと思った。というか、池大雅は割と空を意識してたんじゃないの? と連想するタイミングが2度ほどあったので、我が勘もバカにならねぇぞとちょっと嬉しくなったりした。
追記したいことができれば、また書く。
Last modified: 2024-11-14