『フェラーリ』(2023)を観てきた。自分のスケジュールのタイミングと、ひさびさにアダム・ドライバーを見たかったんで、都合がよかった。

1991年の伝記『Enzo Ferrari: The Man, the Cars, the Races, the Machine』をベースに描かれているらしい。ちなみに邦訳もされており、『エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像』(2004、集英社文庫)が当たるようだ。もちろん、読んでない。エンツォが亡くなったのが1988年のことらしいので、もうずっとフォローし続けた結果の著作なんでしょうね、わからないけど。

なんなら作中で、偽情報を報道させる代償にプライベートの追跡取材を許された記者がいたけど、彼が原作の作者だったりするんじゃないのかな。これも調べてないので、あてずっぽうだけど。

ということで、カーレーシングが主体ではなく、公道レース:ミッレミリア(1957)前後のフェラーリ社の経営危機やらなんやらを、彼の家族関係を絡めて描いた作品であった。個人的には、レースのシーンもメインではないとはいえ過不足なく、なるべく当時の雰囲気を再現したらしいが、こんなとこも走るんだなと気持ちのいい景色を眺められた。

本作はアメリカ映画で、イタリア映画ではないが、当然舞台はイタリアで、題材もイタリア人なので、作品のテーマもファミリーに重きがあって不思議がない。というか、繰り返すがそういう作品になっている。それはエンツォ本人に限ったことは無く、亡くなったデ・ポルターゴの恋人関係とか、優勝したピエロ・タルッフィなんかの描写にも、ちょいちょい配慮はある。

エンツォの母さんが端役とはいえ、ちょいちょい味のある台詞をぶっこんでくるのもそのひとつとは言えそう。この家族、父も長男(エンツォの兄)も割と若く亡くしているようで、母子の絆にはなにかとあったんじゃないかね。

第1次大戦には兵として従軍し、第2次大戦では工場が何度となくぶっ壊されたっぽいが(でその頃に不倫に至ったと)、そういう経緯が写真立てのあたりからフワッといっぺんに想起されて語らせる手法は、ベタで安直だけど効果的だし、上手い。

エンツォを演じたアダム・ドライバー、もうこんなにお爺ちゃんになっちゃっけと思ったら流石に濃厚メイクらしいが、2016年の『沈黙』で出会ってからもう8年か。それなりに年はとるわな。

エンツォ、どうもびっこを引いたような歩き方をするなと思い、怪我でもしたのかなと思っていたが、そのような事実はないらしい。だが、下記リンクの報道によると、アダムは彼の歩き方も研究して演技に取り入れたらしいので、やっぱり特徴的な歩き方ではあったみたいだね。

エンツォの妻のラウラ、あんまり動き回るシーンは無いのだが、彼女も歩き方にクセがあったような気がした。ので、安直には2人は痛み分けしているという演出がそこにはあったのかなとは思った。実際はどうか知らん。

彼女を演じたペネロペ・クルスの表情芸も本作の醍醐味のひとつであることは確かで、冒頭の墓所だとか、別宅の玄関先とか、無気力でソファに横たわっているシーンとか、疲れ切った表情が惜しげもなくクローズアップされる。その映し方に、好き嫌いはあるだろうけど。

対して、別宅の主であるリナは、それは基本的には包容力のある人間として描かれていたね。原作の伝記や映画にどれだけ脚色があったのかはわからんが、ラウラのことは置いておいても、最後までエンツォといい関係だったのはたしからしい。ちなみに、ラウラは地元の名家の出で、リナは裕福な農業家の出らしい。

まぁでもやっぱり、クライマックス直前の50万ドルの扱いと、夫婦の最後の対話が本作のピークじゃないかね。あの、両頬がちょっと膨れたようなブテッとしたアダム・ドライバーの表情、得意なやつですよね。完全にやり込められている。作中あるいは現実にて、ラウラがどういう目算で50万ドルを融通してあげたのかはわかりっこないが、そこにはたしかに絆がある(あった)んだろうから、染みるね。

そういえば、ドゥニ・ヴィルヌーヴが本作を褒めたらしいけど、こういう血族や家族の因果ってテーマ、彼がやってるやつだもんな。好意的なコメントにはなるよなと思った。

あと、2000年以降、エンツォを扱った作品ってこれで5作目(Wikipedia調べ)みたいなんだけど、これはどう解釈したらいいんだろうか。

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