『ナイトサイレン 呪縛』を観てきた。なんとなく映画を見たい気分だった。原題の《Svetlonoc》はスロバキア語で「月の光」を指すらしいが、英題は《Nightsiren》で邦題もこれに従っている。「呪縛」については何とも言えないが、別になくても大差ないかな。どっちでもいいレベルという感触だった。補足的ではある。

ネタバレを避けるアクロバティックな感想にしようと思ったけど、ムダなあがきになりそうなので、止めた。ネタバレっぽい内容を含みます。

なんとなく北欧か東欧の作品だと知っていたが、話している言語はスラブ語系らしく、終わったあとに確かめると、制作はスロバキアとチェコの共同らしい。そうか、ひと昔前はひとつの国だったんだものな、ということでスロバキア語だ。監督は新鋭とされるテレザ・ヌボトバだそうで、女性だ。なるほど。長編2作目らしい。

まったく似たような映画といえば『ファイブ・デビルス』が思い当たるし、ところどころ挟まれる不可思議なシーンは『パーティで女の子に話しかけるには』を思い出したけど、ジョーダン・ピール味というか、そういう感じでもある。一応、ホラー映画らしいんだけど、驚かせる系じゃなくて、とにかく陰湿な感じが漂う系だ。

撮影が実際にどこで行われたのかは知らないけど、おそらくはスロバキアの森林地帯の美しい森林や山々の景色も楽しめるのでオトクである。作中で展開される物語を前提にすれば、あんまり、そういうことに気を配れる感じでもないけど。

ざっくりあらすじ

母から折檻されていた少女シャロータが家を飛び出す。タマラという妹がそれを追ったら、ふとした衝突で崖から落ちる。成年後、母からの遺産相続だとかで地元に戻ったシャロータは、別の理由もあってしばらく田舎に滞在する。が、当時からそこにいたという「魔女」の存在、そしてシャロータのいなくなったあとでの母や実家の行方を探索するうちに、なんかややこしいことになる。

7章立てでちゃんとチャプターが分かれている。冒頭のメッセージにて説明されているが、東欧の田舎では古くからの因習が頑なに残っており、なんともいえない雰囲気ですよという、そういうのが前提になる作品で、もう少し言うと、男尊女卑が半端ないというか、そういう社会だ。

さらに言うと作中でマクガフィンのように扱われる「魔女」は、ある種の女性らの権威化や避難所、そういった効果もあったはずだが、現在においては悪魔化されている。そういう矛盾も監督は突いている、と思われる。

ざっくり人物表

こういうのあんまり見たことないけど、作ってみた。この映画を説明するにはこれで必要十分かと思う。もちろんというか、全員女性ですね。母はほとんど出てきません。

母:虐待者、シャロータ、タマラの母
シャロータ:8歳くらいかで実家から逃亡
タマラ:シャロータとの接触で崖から落下
ミラ:成人してから村に来た人(いろいろフリー)
オティラ:隣家(?)のおばさん
ヘレナ:オティラの娘(洗礼を受けている)

ざっくり魔女とは

ざっくりあらすじで語ったように、結局のところ、悪い因習が強く残っており、それを一手に引き受けたのが魔女という概念であった、くらいの話ではある。が、まぁ、映画としてはそれでは話はつまらないので、ポジティブなほうであった魔女の存在をその背後に見え隠れさせたのがキモだ。

で、解釈違いだったら申し訳ないんだけど、魔女足りうる魔女はオティラなんだわな。山奥の家は過去には2軒ほどあったようで、片方はシャロータ家族(3人)が暮らしていた。現在に至っては、実家は原因不明の火災で焼失しており、おそらくはオティラの滞在? していた家屋だけが残っている。

落下したタマラは母によってオティラのもとへの運ばれ、無事に蘇生する。これは母がオティラにはそういう奇跡を起こせるという認識があったからで、つまりオティラは魔女であった。当時のオティラがどういう意図でこの家族と一緒にいたかは知らないが、結果としてタマラが彼女の手元に残る。

そして彼女はみずからの技術をタマラに継承しようとした。ここは設定上は無理がある気もするが(年齢的な問題)、それはそれとしてタマラは才能があった。魔女を継ぐ資格もあったということなんだろう。おそらくこれは、シャロータにも当てはまっていると思われる。

が、まぁ、オティラは本人としては目的を達成する前にタマラを失い、山を去ることとした。家屋に髪を残して言ったのは、魔女としての役割を止めることとした証なんだろう。クライマックス付近の蛇どもとの交流も脱魔女のイニシエーション的な催しだったんだろう。

補遺:ヘレナは何で落ちた

オティラは、そっから子供作ったんかい? という気もするが、彼女の娘としてヘレナがいる。週末の礼拝で教会から出てくるとかって感じで、クリスチャン(正教会なんですかね)であることがわかる。作中で説明されるが、魔女になるには条件があり、少なくともヘレナはそれを満たしていない。また、オティラが作中現在時点で魔女の継承を成し得るかもよくわからない(引退したっぽいから)。

夏の祭りと言えば、洋の東西を問わず、はっちゃけた現場の空気感によって諸々の人間関係をリセットするような効果が見込まれ、魔女のサバトと呼ばれるようなのも、もともとはそういうイベントだったんだろうけど、まぁ、そういうことが起こる。描写される。限りなくセクシャルで結構びっくりしたというか、上述の『パーティで女の子に話しかけるには』もそうだが、『サスペリア』(2018)も連想した。下品じゃないセクシャルさというか。

これがタマラが生じさせた空間なのか、そういう夢なのか、もっと適切な解釈はあるはずなのだが、とにかくシャロータとヘレナが巻き込まれる。先ほど述べたように、シャロータは魔女への適性があるので、この空間から逃れるというか、捕まり切らない。おそらく、羊飼いの青年がいたことも意味を持っている。

ところがヘレナに関しては、魔女になる資格もない。そして重要なことと思われるが、子を為すインセンティブもモチベーションもない(おそらく意味がある)。炎を囲んだ煽情的な女たちの舞のなかに一瞬だけオティラが怒りの表情を見せたのは、もうそういうことじゃないのか。彼女の魔女としての側面は、ヘレナを必要とはできなかった。そして悲劇につながる。

しかし、シャロータの手先とか背中とか蛍光色で光って、まるで両生類のようだったけど、あれはどういう意図による演出なんだろうかな。

ざっくり抜毛症とは

これがよくわかんなかったひとつ。あるシーンで突如、シャロータが鬘を被っていることが判明する。ビビった。どこのシーンだったけか。山奥で水浴びをする直前か。それは、オティラから妹のことを聞き出そうとして喧嘩になって逃げだした直後だったかな。

この病気の医学的な初見はしらんけど、物語としては、オープニングで母に髪の毛を雑に扱われいたというのがひとつ。それはそれとしても、象徴的には魔女になるのを拒んでいるというような見方もできるのだろうな。髪の毛をぞんざいにする限り、彼女は魔女足りえない。

そんくらいしか言うことないなと思ったけど、水浴びをした直後に彼女が切り開かれた山肌を眺めて典型を得たようになってたのは、なんだったんかね。アピチャッポンの映画でも見てるような感覚があった。

と、思ったのも束の間、ぶん殴られたのもなかなかわからん。あのおっさん、2、3度画面に映った隻腕のひとかな。なんで彼女を殴ったのかもわからないし、結局その後は出てこず、いつのまにかミラに介抱されているし、謎が多い。

その他のことなど

  • スロバキアのイースターには実際に女性に水をかけたり、枝で叩いたりする風習があるらしい。イースターと言うが、これはイースターに取り込まれた土着的な催しと捉えたほうがおそらく正しいんだろう。「若さや健康を称える」というポジティブな説明を見たが、劇中でのそれは普通に粘着質でいやらしいものだったし、実際そういう側面のほうが強いのかもしれない。現代においてはなおさら。

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