コーエン兄弟の映画、観たこともないが、なんとなくフォローしてる人が話題にしていたので、『ドライブアウェイ・ドールズ』を観てきた。

弟イーサンの単独監督だそうで、脚本には、彼のパートナーであるトリシア・クックが参加しているらしい。女性の登場人物がやたらとハッスルしているという情報だけはあったが、別にそれが主な目当てであったわけではない。

舞台は1999年。ペンシルバニア州はフィラデルフィアだっけ。場末のバーから逃れたおっさんは、荷物を奪われて生首になってしまう。ところで、次のシーンでは、前情報にあったように、さっそく女性がハッスルしている。なるほど…。…物語の全体像は、まだわからない。

ハッスルしていた女性の片割れであるジェイミーと、そんな彼女とピュアな友だちあるらしいキリッとした女性マリアンが主役となる。ジェイミーの破局を癒す(?)旅行をついでに、マリアンらはフロリダは州都タラハシーへ向かうことになった。で、冒頭のおっさんの荷物が彼らの乗る車に秘匿されていたので、逃避行劇となる。わかりやすい。

ジェイミーはマリアンのお堅さを、友情から、ちょっとでも取り去ってあげたいわけだ。それは彼女の信条かしらんけど、もっとビビットに生きてほしいという勝手な願いであって、その自覚は彼女自身にある。マリアンとしてもうっすらと自分が堅すぎるという自覚はあって、もっと自分に素直になりたいというわけ。

そこには、彼らが同性愛者(バイなのかしらん?)であるという事実が障害となる部分もあるのだろうが、機微はよくわからん。アメリカと言っても99年だと現代ほどLGBT的なひとらの立場が強かったわけでもなさそうだが、南部の州なら当時はどうだったんだろうね。

ところで、所々の演出では、1990年代よりも古臭い雰囲気があった。具体的には、70~80年代がピークであったろうサイケデリックなイメージがちょいちょい挟まれる。よくわからんが、全体の調和はなぜか損なわれていない。変な映画であることは既にわかっているし。なんなんだろうなと思うまま、話は進んでいく。

これも、なんてことはなくて、オチとしては、南部州の大統領候補にもなろうという議員のヒッピー時代のやらかしが本筋の裏ネタであり、その証拠品を巡ったいざこざに彼女らが巻き込まれた、というに過ぎない。

全体としては、シモの話が中心になるので、それを受け入れられる人間じゃないと、本作はそもそも楽しめなさそうなのだが、バカバカしくて笑う。

さて、色々と苦難を乗り越えて、彼女らは追手とのやりとりを終え、同性愛へ寛容なマサチューセッツへ向かうこととなる。というわけで、基本的にちょっと品のないコメディであった。

ジェイミーのほんとのところ

フロリダのホテルに投宿するにあたり、利用分の手数料がLBGT協会だかに寄付されるレインボーカードなるクレジットカードを、ジェイミーが使うシーンがあった。音声は聞き取れなかったが、字幕にはたしかにあった。調べてみると「LGB(T)」は、80年代くらいから使われていたらしく、そのようなカードも実在するようだ。彼女のその辺の意識がまっとうに強いというだけでなく、それなりにちゃんとしたホテルで支払いに足るカードを所持しているというのがポイントかなと。

振りかえってみると、ジェイミーは、行動自体はかなりアウトローだが、マリアンに対する態度もアプローチもギリギリとはいえ、基本的には真摯だ。ついでに、後述するが、ヘンリー・ジェイムズの『ある婦人の肖像』を読んだことがあるらしい。序盤はラフな格好だったが、展開の次第と要請により、ちゃんとした格好もする。彼女は、そういうことができるのだ。

つまるところ、語られることなかったけど、ジェイミーはそれなりにちゃんとした人間(として育ってきた、育てられた)と察せられる。だからなんだ、という論にしたくないけど、キャラクターの造形としては、そういうことだったんだな、とは気に留めておきたい。

マリアンのほんとのところ

作品と関係ない、ジェラルディン・ヴィスワナサンという俳優さん、父がインド系らしいが、作品内での雰囲気というか、顔の造形というか、上白石姉妹に似ていませんか? 彼女が困り顔するたびに「似てるなーっ」てなっていた。

マリアンの過去にお付き合いしていた人物ってのが、男性なのか女性なのかちょっとわからなかった、別に物語の全体にはほぼ影響ないと思うけど。

作中、彼女の性の目覚めを示唆するエピソードが、2度ほど挟まれる。結局、肉体美というのは男性にせよ女性にせよある。その存在に気づいたとき、性的ななにかが迸るってもんなのかね。彼女がまず見出したのは、女性の美しさだった、というのは確かなんだろう。

このエピソード、絶対(と言ってはいけないが)、脚本らの体験に基づいてるんだろうな、とは下衆の勘繰りだが、ちょっと思った。およそ性の神秘ってのは、覗きに近いところから始まる。現代社会では、概ねそれは秘匿されているからだ。彼女が歓びを感じた夜、そのまあ深い眠りについちゃうってのは、なんともリアリティを感じる(ほんとかどうかは責任は持てませんが。

タイトルのほんとのところ

《Drive-Away Dolls》だが、エンドクレジットの入りで最後に書き直されていた。”Dolls” が “Dykes” というふうに。劇場でみたときは「アレ」の複数形だっけかなと思ったけど、辞書を引くと dyke がレズビアンを指す語(侮蔑語ともあった)であるらしい。ので、そのままの意味だ。もしかしたら、音としては「アレ」も掛かっているのかもしれない。

軽い気持ちで見るにはいい映画だったし、なにか考えようと思うとそれなりに掴みどころもありそうだし、なにかと良い映画だった。

ヘンリー・ジェイムズ、あるいはウィリアム・ベンについて

ジェイミーが読んだというヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』のほか、同著者の作品をマリリンは『ヨーロッパ史』、もう1人の登場人物は『金色の盃』をそれぞれ読んでいる。どれも作品におけるキーパーソンには違いない。この作家は、ニューヨーク生まれだそうだが、反動的にイギリスに近くなったらしい。

ここからは、生成AIから出力された情報を頼りに綴る。『ある婦人の肖像』は、彼の人生よろしく、アメリカからイギリスへ移住した女性の物語とのこと。『ヨーロッパ史』は、なんと日本が関係する、天正遣欧少年使節のエピソードが関連する内容らしい。『黄金の盃』は、やはりアメリカ人がイギリスに移住する物語であるらしい。

なんなんじゃろ。この符合は。

歴史的な符合はもうひとつあって、本作、冒頭と途中に1回ずつ、フィラデルフィア市庁舎のてっぺんに飾られたウィリアム・ベン像が映る。この方が誰かと言うと、イギリス出身の作家、宗教思想家、クエーカー教徒だそうで、ペンシルベニア州、デラウェア州の礎を築いただけでなく、アメリカ史の基礎付けにも欠かせない人物らしい。

まー、全然わかんないけど、ウィリアム・ベンとヘンリー・ジェイムズが足跡としては逆ルートを辿っているとは言えるわけで、おそらく脚本の仕掛けにも影響しているのではないか。これ以上は調べないけど。

軽い気持ちで見るにはいい映画だったし、なにか考えようと思うとそれなりに掴みどころもありそうだし、なにかと良い映画だった。

Comments are closed.

Close Search Window