書店に足を延ばす機会もめっきり減った。本当は2週に1ぺんくらい通いたい。その方がいい。なんだかんだ書棚から得るインスピレーションはバカにならない。だが、タイミングの問題というか、目下として読む本に困っていないし、結局のところ足を延ばすに至らない。

なにより、電子書籍があれば、そちらを優先する。

そんな折、ひさびさに偶に行く書店で、目に留まった雑誌『地平』を手に取った。

今年から稼働し始めた地平社という出版社、その雑誌だ。聞いたことがなかった。雑誌は、この書店の人文棚の周辺にあった。特集は、ガザだ。パラパラとめくると、創刊のメッセージが大きな文字で書かれている。よくわからない。奥付付近に編集長のメッセージがあり、創刊のメッセージの通りだと言っている。やっぱり、わからん。

で、編集長の熊谷伸一郎という方だが、岩波書店で雑誌『世界』を率いていた方らしい。

もともと雑誌を読まない

マンガ雑誌くらいしか購読した記憶がない。いや、「Newton」はしばらく買っていたか。ほかにもいくつか、購読したことはあるけど、本読みの端くれのクレとして、フェバリットなタイトルがない。なんならイヤな思い出もある。あるいは、たまに気になる特集があれば購入する。しかし、この年になっても、雑誌の読み方がわからない。気になるところだけ読めばいいのか、全体を読めばいいのか、前から読めばいいのか、いくらでも文句は浮かぶ。

もちろん、好きにすればいい。

雑誌を好む人は、コンセプトを好むのだろうか。デザインと言ってもいいけど。そもそも雑誌なんて言うのは、(雑という字が充てられている理由も知らないが)、多彩な情報の寄せ集めだろう。これはネガティブな表現のつもりで用いたが、自分についていえば、一貫したものが見づらいので苦手なのだとも言いたい。

それぞれの雑誌にはコンセプトがあるだろうけれど、それが購読の理由になるのかね。たとえば漫画雑誌をとって連載が10あるとしたとき、半分も継続して読んでいるなら購読の意味はある、という議論をぶつけることはできそうだ。もちろん1作でも読みたい作品があれば素晴らしいことだが、ほかは読まずに捨てられる。そういうもんなのかな。私が貧乏性なのかしら。

あるいは、一般的には雑誌には「特集」ある、と思う。それが気になれば読むだろう。なんだかんだ、私が偶に買うときは、そういうときだ。

いずれにせよ、本当に読む価値があるのかわからない(それは自分で見い出すもんだ)情報の紙束にあんまり興味がないというか、ある種の後ろめたさに負けるんだよね、ほとんど目を通さないお前を買っていいのかと。これは昨今のマスメディアに対する浅薄な意見に近いところがある気はするし、そうであってほしくはないが、そうなのかもしれない。

ちなみに、『絶望からの新聞論』(地平社)は、興味あるが、目次を読むとそうでもない気もする。気が向いたら手に取ってみる。

コトバの復興とは

さて、岩波文庫にはお世話になってきたが、それっきりというか。次点で岩波新書、広辞苑にはお世話になってきたか。岩波書店の単行本その他、あんまり手元にもないし、これといった印象もない。

私は政治には疎くて、センスがないとすら思って自らを胡麻化しているが、そもそもいわゆる右左というイデオロギーに立脚した筋立ての論争が幼い頃から馴染まず、敬遠してきたが、昨今ではその手の陣営的な物言いもあんまり表面には出てこない気はする。

もっと個別のイシューごとに立場や信念を表すことの方が増えたよね。それで対立する議論が深化してるのかはわからないというか、大して進捗ないように傍からみてると感じるが、それはそれとして、総論としては、岩波はいわゆる左なんでしょ?

その左寄りらしい岩波書店のスタンスが理解しづらい、付いていって大丈夫なのか? という懸念はあるわけで、それこそ個別の書籍なりで判断、評価すべきではあるが、しかし、つまるところ、上述したところのコンセプトって、そういうことじゃん。

今回の『地平』で、熊谷さんの考えていることは、言葉上はわかるし、強く共感するけれど、つまるところ本誌も岩波での経歴で築かれた人脈の上に成立しているわけだろう。そこで、岩波ではできなかったことを実現しようというのだろう点は認めるが…。

翻って、それって楽しそうじゃんね。

如何様なエンターテインメントでも、なんでも、それらが私たちを支えて、世の中がうまく回るなら、そりゃそれでいいんだけど、実に奇妙な論点ではあるが、残念ながら、安定した社会を築き、支えてきたのは、それを標榜する言葉にほかならないわけだ。

その前提に立とうが、否定しようが、現下、安定しない方向にあるように思われる状況は、身の周りにも、地球のどこかにも、たくさんある。

言葉を紡いで、信じてきた立場からすれば、どうした?! って事態だ。

リーチの問題なのか、コミュニティの問題なのか、いずれでもあるだろうが、結局は他者を巻き込むコトバが生まれない、あるいは必要とされないのが現今の世のなかだ。そして、もし後者であるのなら、この疑問は泡沫ですらないが、一方で、そうであれば、抵抗は抵抗として認め、それを記録としてコトバにすべきであろう。ヒロイックではある。

ってかそもそも、大体、「コトバ」ってなんなんすかね。

紀伊国屋書店新宿本店にて

で、その日は雑誌『地平』を手に取って帰った。もちろん、レジを通した。上述のような出版社の情報、増刷がかかったことなどを知る。創刊おめでとうございます。中身もちょっと読んだ。

ほいで、先日、都合で新宿まで足を延ばし、時間があったので、紀伊国屋書店に立ち寄る。大抵は、3階の人文書籍棚を眺めて同階の棚をザッピングもとい棚眺めショッピングし、5階のコンピュータ書、2階の文庫、1階の新刊棚というような順で冷やかす。で、雑誌『地平』は人文棚には無いんだよな。結論からいうと総合雑誌枠で1階あるわけだけど、へぇという感じ。

これは単なる書店、書棚のジャンル問題か、雑誌の流通形態を巡る問題なのか、あるいは別の問題か知らないけど、雑誌が苦手な理由がここにもある。いや、どちらかというと書店の棚づくりの妙にかかるところが大きいのだろうけど、やっぱ雑誌って苦手なんだよなぁ。

というわけで、1階の雑誌の棚に行くと、雑誌『世界』と横に並べて売られており、それは既存の読者からしたら一大イベントとでも呼べるのかも知らんが、目に留まる事態ではあろう。仕入れ自体は『世界』のほうが多いと想像するが、『地平』はほとんど売れていて、残り数冊となっていた。再入荷するんかね。

安心してください、『世界』はまだたくさん積んでありました。

ところで、『世界』7月号の特集だが、おそらく「スポーツと権力」だ。気になったので、Webサイトでバックナンバーを眺めると、6月号は「軍拡進行国家」、5月号は「地方対中央」、4月号は「トランプふたたび」、3月号は「さよなら自民党」、2月号は「リベラルに希望はあるか」、1月号は「ふたつの戦争 ひとつの世界」というような感じだ。うーん、そうか。

まぁなんだその

ここ最近、能動的に紙の本を手に取る機会が減っていたので、今回のケースで、そういえば雑誌を定期的に読むなら、ちょうどいいかとなった。廃棄のハードルも低いし。いや、たまには買ってるんだよ。ほいでまぁ、雑誌『地平』の行く先も追ってみたい気持ちになっている。

ちなみに、本誌も Kindle 版はちゃんと存在するようだが、今回の行動のコンセプトとして、フィジカル版を読む。

「地球」に「平和」で「地平」というのは、いいですね。小松左京のデビュー作品、「地には平和を」を連想する。あちらは聖書からの引用だったと思うが。

地平はいいよね、地平は。

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